山 槐 記
 
   
   『さんかいき』と読みます。著者は内大臣中山忠親。   
 花山院流藤原氏の公家で、洛東の中山に堂を建て、晩年をその傍らの別宅にて過ごしたことから、「中山」を家号として、後世、中山内大臣と称されました。   
 これにより、「中
」の家名と、内大臣の称「門」より、一般に『山槐記』との呼称が用いられますが、他に『貴嶺記』『達幸記』『深山記』などの異称もあります。   
    
 
  中山忠親 略歴
 
天 皇 年 月 日 年齢 位 階 官 職 等 備   考
崇 徳 1140(保延6) 1. 6  10 従五位下    
近 衛 1149(久安5) 4. 9  19  左衛門佐   
1150(久安6) 5.24  20  蔵人   
1151(久安7) 1. 6  21 従五位上      
〃 (仁平1) 4.22   左衛門佐 を解官
 蔵人    〃
 斎院御禊御前駈の
   不勤による
〃  〃  9. 4   蔵人に還任   
1152(仁平2) 9. 9  22 正五位下     美福門院未給
1154(仁平4) 1.23  24  播磨権介   
1155(久寿2) 7.23  25  止蔵人  8月25日更蔵人
1156(久寿3) 4. 6  26  右少将   
後白河 1157(保元2) 1.24  27 従四位下  尾張権介   
1158(保元3) 5.21  28  左中将   
二 条 1159(保元4) 1. 6  29  従四位上      
1160(平治2) 1. 5  30 正四位下      
〃 (永暦1)10. 3   蔵人頭   
1162(応保2) 2.19  32  中宮権亮   
1163(応保3) 1.24  33  因幡権守   
1164(長寛2) 1.21  34  参議   
六 条 1167(仁安2) 1.28  37 従 三 位    
〃  〃  1.30   備前権守   
〃  〃  2.11   権中納言   
高 倉 1168(仁安3) 3.11  38 正 三 位      
1176(安元2) 1. 3  46 従 二 位     朝覲行幸賞
1177(安元3) 1.24  47  右衛門督
 検非違使別当
  
1178(治承2) 7.26  48  中宮権大夫   
1179(治承3) 1.19  49  右衛門督  を辞任
 検非違使別当 〃
  
〃  〃 11.17   春宮権大夫  止中宮権大夫
1180(治承4) 1.20  50 正 二 位     春宮御着袴賞
安 徳 〃  〃  2.21   止春宮権大夫  安徳天皇の践祚による
1181(養和1)11.25  51  建礼門院別当   
1182(寿永1)10. 3  52  中納言に転任   
1183(寿永2) 1.22  53  権大納言   
後鳥羽 1189(文治5) 7.10  59  大納言に転任   
1191(建久2) 3.28  61  内大臣   
1194(建久5) 7.26  64  内大臣を辞任   
〃  〃 12.15   出家  病による
1195(建久6) 3.12  65  薨去  號中山内大臣
   解官(げかん)=解任
    
   『公卿補任』によれば、生年は大治6(1131)年。   
 権中納言藤原忠宗の二男で、母は参議藤原家保の娘、太政大臣まで進んだ花山院藤原忠雅は同母の兄とあります。   
 父忠宗は、兄忠雅10歳、忠親が3歳の時に他界しましたが、藤原道長の曾孫にあたる祖父家忠は長命で、左大臣まで上り詰めたこの祖父の庇護の許、忠雅は順調に昇進を重ね、忠親はその兄の猶子として養育されていたようです。   
 兄忠雅の子兼雅は平清盛の娘婿となり、その縁で、平家全盛の時代には、親平家の陣営に組して、順調な出世を遂げます。   
 特に清盛の娘徳子入内の後は、中宮権大夫や春宮権大夫、建礼門院別当に任じられるなど、文字通り「身内」的な扱いを受けています。   
 もっとも、平家滅亡の後も、特に排斥されることもなく出世を続け、建久2(1191)年には、遂に内大臣にまで至ったその処世術を鑑みると、兄忠雅の威光のみならず、敵を作らない、忠親自身の人当たりの良さによる所が、大きかったと見るべきかもしれません。   
    
   さて、肝心の『山槐記』についてですが、これも他の公卿日記同様、極めて闕巻が多く、その書き始めの年月も特定できない状態ですが、現存するものに限れば、仁平元年(1151)から建久5年(1194)の44年にわたる記録ということになります。   
    
 内容については、まずその職歴上、
中宮徳子の懐妊、安徳天皇の誕生・即位といった事象について、詳しく記載されています。   
 治承2年5月24日に、中宮権大夫平時忠より中宮懐妊が報告されたのを期に、安産祈願の祈祷が連日のように続けられたこと
〈治承2/5〜11月〉、皇子誕生の際に、内大臣重盛が九十九文の銭をその枕元に置いたこと〈治承2/11/12〉、乳母は本来宗盛の妻がなるはずだったのが、産後に急死したことにより、叔父時忠の妻(洞院局)になったこと〈同日〉、西八条亭に行啓した二歳の東宮(安徳天皇)が、障子に指で穴を開けるのを、祖父の清盛が涙を流して喜び、その障子を家宝として大事にしまっておくように命じたこと〈治承3/12/16〉など、お馴染みのエピソードも随所に見られます。   
    
 さらに
以仁王と源頼政の謀反〈治承4/5月〉頼朝挙兵後の富士川の合戦〈治承4/10〜11月〉南都炎上〈治承4/12月〉などの、源平争乱に関する詳密な記事も勿論多く挿入されています。   
 特に、以仁王の謀反を鎮圧する
宇治川の合戦については、実際に討伐の将軍の一人であった、平維盛自身に取材した〈治承4/5/26〉というので、かなり信憑性のあるものになっています。   
 これによれば、三井寺に赴いた頼政の軍勢は
50余騎、追討に向かい、馬筏を組み宇治川を渡河したのは200騎余りとしており、『平家物語』や『源平盛衰記』が語る追討軍2万8千とか頼政軍1-2千という数には、桁違いのサバ読みがあることになります。   
    
 また
富士川の合戦について、世に名高い「水鳥の羽音」の話〈治承4/11/6〉が記されていますが、これは、近頃あちらこちらで「虚言甚多」であるとして、断定は避けています。   
    
 それにしても、宗盛に送られてきた敗戦の報告に関して、
  
「但此事追討使維盛朝臣一切無音、只忠清許申之云々」〈治承4/11/4〉   
とあるのが、どこか上総介忠清の讒言めいたものを匂わせ、忠親自身の維盛に対する強い思い入れが感じられるのは、単に忠清と維盛の身分を比しての信用性の問題か、それとも、重盛の死後、微妙な立場に立たされる維盛を気遣ってのものか……。   
    
 というのも、それ以前、重盛の出家に関して、治承3年5月25日の条で、その病状や3月に熊野詣に行ったことに触れ、その後も再三病状について記しているなど、忠親が平家の中でも、特に重盛と懇意にしていた節があり、とすれば、維盛に重きを置いた見方をするのも当然のことかもしれません。   
 ただ、7・8月が闕巻しており、7月29日とも8月1日とも言われる重盛薨去の日について、言及する材料を全く持ちえないのは、何とも残念なことです。   
    
 また、治承5年(1181)1月〜元暦元年(1184)6月及び同年10月〜翌2年(1185)6月が、大きく闕巻しており、一の谷や屋島・壇の浦といった、源平が雌雄を決した合戦に関する記述も皆無であることも惜しまれます。   
 しかし、当時の情勢を知る手がかりとして、歴史学上、有意義な史料であることは疑いのない所です。   
 さらに、元暦2年7月に起きた大地震に関する詳細な記載は、地震学の研究にも役立てられていることを最後に付け加えておきます。   
 
    
 
  『山槐記』〈史料大成 19−20:内外書籍〉
 
巻名 収録年代   事   項   〈 〉内は記載日
第1篇   
  
(19巻)
1151(仁平1)年     
  
 〜1166(永万2)年 
 鳥羽院五十御賀〈仁平2/3/7〉
 近衛帝崩御・後白河帝践祚〈久寿2/7/23−24〉
 守仁親王(二条帝)の立太子・元服〈久寿2/9/23・12/10〉
 二条帝践祚〈保元3/8/11〉
 平時子(清盛室)八十島使を務め従三位に叙される
           〈永暦1/12/16・12/24〉
 平滋子(時子の妹)後白河院の皇子を産む〈永暦2/9/3〉
 憲仁親王(高倉帝)の立太子〈応保2/4/10〉
第2篇   
  
(20巻)
1167(仁安2)年     
  
 〜1179(治承3)年 
 平清盛内大臣任官・辞任〈仁安2/2/11・6/20〜21〉   
 高倉帝元服の後宴〈嘉応3/1/4〉   
 中宮平徳子の懐妊・御産〈治承2/5/24・11/12〉   
 清盛、宋書『太平御覧』を献上〈治承3/2/13〉   
 平重盛の出家・危篤〈治承3/5/25・6/20〜21〉   
 関白基房以下院近臣39名を解官〈治承3/11/16・17〉   
 後白河院を鳥羽に幽閉〈治承3/11/20〉
第3篇   
  
(21巻)
1180(治承4)年     
  
 〜1194(建久5)年    
  
    
+ 補遺・除目部類
 安徳帝の践祚・即位〈治承4/2/21・4/21〉   
 以仁王の謀反・宇治川の合戦〈治承4/5月〉   
 頼朝挙兵・富士川の合戦〈治承4/9〜11月〉   
 園城寺(三井寺)・南都攻撃〈治承4/12月〉   
 後鳥羽帝の即位〈元暦元/7/28〉   
 源義経の検非違使任官〈元暦元/8/6〉   
 大地震〈元暦2/7/9〜〉
   
   
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  〈山槐記−我楽多文庫〉
   
   
   
   
   
   
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