保元の乱前夜 〜天皇家の事情〜
 
   
   藤原道長の時代からおよそ100年後の白河天皇の御世。   
 この白河天皇は20歳で天皇となりましたが、14年後の34歳の時に何を思ったのか、突然我が子で皇太子の善仁親王に譲位します。   
 しかし、この時新帝となった堀河天皇はわずか8歳。これは数え年ですから現在の年齢に置き換えると6〜7歳、小学1年生位です。どう考えてもまともな政治判断ができるとは思えません。そもそも34歳といえば今と昔の寿命の差を考慮に入れたとしても、楽隠居なんて気の早い
……、バリバリの働き盛りではありませんか。   
    
 「誰が隠居するなどと言ったかね?」   
    
 そう、白河天皇もとい白河上皇に引退する気などさらさらありませんでした。   
 天皇の位は譲っても政治の実権は自分が握り続ける
――摂関政治の天皇家バージョンともいうべき【院政】がここに始まるわけです。   
    
 白河上皇は出家して法皇となっても、また堀河天皇が成人して天皇としての責務を遂行できる年頃になっても権力への執着が薄れることはなく、独裁態勢を敷いていました。   
 反対に堀河天皇の方はこの元気な父親に英気を吸い取られていたのでしょうか、日頃から病がちでついには29歳という若さでこの世を去ります。   
 堀河天皇の後にはその子供の宗仁親王が践祚しました。が、この鳥羽天皇もまだ5歳と幼児でしたから、勿論、白河法皇の院政は続行です。   
    
 ここで少し話は変りますが、白河法皇には堀河天皇の他にその姉に当たる"女是"子内親王という姫宮がいました。   
 夭折した中宮賢子に替り堀河天皇の准母となり、郁芳門院という院号も受けたこの内親王を上皇はことのほか愛し、それはもう目に入れても痛くないほどの可愛がり様でしたが、不幸にも21歳という花の盛りで他界します。   
 白河法皇は内親王の死を悼むあまり、周囲の制止も振り切って出家したとも言われています。   
 そして、この悲しみを埋めんがために、近臣の娘で法皇には孫のような年頃の少女璋子
(たまこ)が養女に迎え入れられます。(名目上は法皇の寵女祇園女御の養女)   
 亡き内親王の形代のつもりだったのでしょうが、法皇が璋子を可愛がる様は尋常ではなく「昼日中より法皇の懐中に足を入れて眠っている」などと噂されるほどでした。その度を越した偏愛ぶりは璋子の成長と共に次第にエスカレートし、ついには男女の一線をも越えるものとなるのでした。   
    
 血の繋がらない養父と養女とはいえ、法皇と璋子のスキャンダラスな関係は忽ち公卿達の知る所となります。しかし、この法皇、いったいどういう頭をしているのか、自分が手をつけておきながら急に父親の自覚でも目覚めたものか、璋子の結婚相手を探し始めます。   
 相手と一口に言っても、法皇の養女ともなるとそんじょそこらのボンクラ公達というわけにはいきません。   
    
 そこでまず候補に上がったのが摂関家の子息藤原忠通。   
 院政を敷いて実権は自分が手中に収めているとはいえ、やはり摂関家と仲良くしておくに越したことはない
―― 要は家柄だけで選んだのでしょうけれど、これは政治的に見てもまあ妥当な線でした。   
 ところが父親の関白藤原忠実に話を持ちかけた所、あっさりと断られてしまいます。何しろ例の艶聞は有名でしたし「そんな曰付きの娘を当家に押し付けれてはたまらない」とばかりに強行に突っぱねたと言います。   
    
 あえなく摂関家との縁談は破談となり、次の相手の選定に困った白河法皇に、ふととんでもない考えが浮かびます。   
    
 天皇の後宮に入内
――   
    
 まあ、確かにこれほどの良縁はないでしょうが
……。   
 鳥羽天皇も絶対権力を振りかざす白河法皇には逆らえず、事は思いの他、すんなりと運ぶことができました。   
 鳥羽天皇15歳、璋子17歳。若干姉さん女房ながら、釣り合いのとれたいい縁組ではあります。そう、白河法皇との一件さえなければ
……。   
 しかしまあ、自分のお手付きをよりによって孫に押し付けるとは
……、とんだ無神経ぶりです。おまけにあろうことか、入内して後も足繁く璋子の元に通い、関係を続けていたというのですから開いた口が塞がりません。   
    
 程なく璋子は懐妊し、月満ちて男皇子を生みました。   
 顕仁
(あきひと)と名づけられた鳥羽天皇の第1皇子、が、実の父親は誰あろう白河法皇であることを疑う者はなく、鳥羽天皇も自分の妃が生んだ子ながら、祖父の胤であれば叔父であるから「叔父子」だと公言して憚らなかったと言います。   
 白河法皇の方も、愛しい璋子の生んだ皇子とあれば可愛くないはずがありません。こうと決めたら即実行に移すのがモットーですから有無を言わせず鳥羽天皇に譲位を迫り、年端のいかない顕仁親王を無理やり天皇の位に就かせます。そして国母となった璋子は「待賢門院」の院号を賜ります。   
    
 それにしても、この5歳の幼帝崇徳天皇が後に乱世を引き起こすことになろうとは
……、さすがの白河法皇も思いもよらなかったでしょうね。   
    
 さて、一方的に天皇の位から引きずり落とされた鳥羽天皇。祖父と不義密通を犯し、譲位の元凶を作った璋子をさぞかし憎み疎んじたのだろう
……と思えば、意外やそうでもないのです。例の顕仁親王はともかく、その後、鳥羽天皇と璋子の間には次々に皇子・皇女が生まれています。   
 祖父が祖父なら孫も孫、と言ってはなんですが、どうやらこの璋子という女性には異性を惹きつけてやまない、不思議な魅力があったということでしょう。   
 一見、白河法皇と鳥羽上皇、その愛憎のはざまで翻弄される儚げな美女、しかし、その実はむしろこの二人こそ璋子という魔性に魅入られ、自制心を失なっていたのかもしれません。   
    
 かくして、思いのままにならないものは「双六の賽の目」と「賀茂川の水の流れ」と「延暦寺の僧兵」だけと豪語するほどのワンマンぶりを発揮し続けた白河法皇でしたが、どんな人間にも必ず寿命というものは訪れるもの。とうとう77歳で崩御の運びとなります。   
 超重量級の漬物石の下で長年我慢し続け、すっかりいい漬かり具合になった鳥羽上皇は満を持して院政を開始します。その出生に疑惑ありとはいえ名目上は崇徳天皇は我が子、院政を行うことに何の障害もありません。   
 白河院政を踏襲して政治の実権を掌握した鳥羽上皇は、長年の遺恨をはらすかのように逆襲に転じます。   
    
 と、ここでまた話が少しそれますが、鳥羽上皇は何も璋子一人に溺れていたわけでなく、他にもお手つきの女官が何人もいて、中でも藤原得子
(なりこ)という女官を寵愛していました。   
 やがて、その得子に躰仁
(なりひと)という皇子が生まれると、鳥羽上皇はこの皇子を天皇の位に就かせたいと考えるようになります。しかし、この時崇徳天皇もまだ23歳と若く、そう簡単に位を降りることに同意するはずはありません。   
 そこで一計を案じます。まず、崇徳天皇に躰仁親王を養子に迎えて東宮とするよう勧め、天皇も鳥羽上皇の言いなりにそれを了承します。これで義理とはいえ父子関係が成立。   
 そして、ここで悪魔のささやきが
……。   
    
 「天皇の位におわした所で、どうせ実権は父君の院が握っておられるのです。ならばいっそ東宮に位を譲り、ご自身が院政を行ってはいかがにございましょう」   
    
 鳥羽上皇の専横を少なからず不満に思っていた崇徳天皇は、この悪魔のささやきに耳を傾けてしまいます。   
 しかし、学校の教科書や参考書をいくらめくってみても   
  『崇徳天皇は養子である躰仁親王に位を譲り、院政を行いました。   
     めでたし、めでたし』   
          なんて、どこにも書いてありませんよね。   
 そう、この譲位にはとんでもない裏技が隠されていたのです。   
    
 新帝近衛天皇即位の宣命に書かれた文字に注目!
――「皇太弟」   
 皇太
ではなく皇太――つまり崇徳上皇は新帝の「兄」と位置付けられ、となれば父と子の関係であることが前提条件の院政なんてできるはずはありません。   
 「謀られたか!」と気づい時にはもう後の祭りでした。   
    
 鳥羽上皇が引き続き院政を行い、崇徳上皇は政界から完全に隔絶され、その影では近衛天皇の生母である美福門院(得子)がほくそ笑んでいたことでしょう。   
「事件の陰には女あり」とはよく言いますが、今回のだまし討ちのような交代劇の裏で、美福門院を中心とした暗躍グループが動いていたことはまず間違いのないことでした。   
    
 近衛天皇の治世となって程なく鳥羽上皇は出家して法皇となりますが、ますます院政に勤しみ、この間、崇徳上皇の恨みもどこ吹く風と至極穏やかに時は過ぎます。   
 ところが久寿2年(1155)、近衛天皇が17歳の若さで薨去したのをきっかけに暗雲が垂れ込め始めます。   
    
 近衛天皇には皇子がおらず、誰が後を継ぐか問題となりました。   
 そこで候補者として挙がったのが重仁
(しげひと)と守仁(もりひと)という二人の皇子。   
 片や重仁は崇徳上皇の第1皇子で、片や守仁は崇徳上皇の弟雅仁
(まさひと)の第1皇子と従兄弟同士に当たる二人です。しかし、重仁はともかく、なぜ近衛天皇の兄でもある雅仁をすっ飛ばして、息子の守仁が候補に上がったのか……。   
 少し謎解きをしておくと、雅仁は崇徳上皇と同腹
――つまり待賢門院璋子の生んだ皇子でしたが、若い頃から放蕩三昧の自堕落な生活をしていて、父の鳥羽法皇をして「こいつは天皇の器ではない」と言わしめるほどの不肖の息子でしたから、端から誰も相手にはしませんでした。   
 ただ、その息子の守仁は父親に似ず秀才で、また母親を幼くして亡くしていたため、美福門院の養子ということになっていました。   
    
 と、ここでまたもや影の女登場!   
    
 道理で行けば先帝である崇徳上皇の子重仁に軍配が上がります。「当確間違いなし!」と崇徳上皇も大船に乗った気でいたに違いありません。   
 しかし、そうなっては父親の崇徳上皇が院政を敷き、かつて罠に嵌めた自分達の立場が危うくなる
――我が子近衛天皇が亡くなってその涙も乾く間もなく裏工作に走り回った美福門院は、ただ位が転がり込んで来るのをボーっと待っているだけの崇徳上皇よりも一枚も二枚も上手でした。   
    
 四の宮雅仁親王が新帝に践祚
――   
 この知らせを聞いた崇徳上皇は、茫然としたことでしょう。   
 「なぜだー!」と叫んで、そこら中をのた打ち回ったかもしれません。   
 誰もが考えなかったダークホース、これだけは絶対無いと断言できたはずの大穴中の大穴、賭けたあなたは万馬券で億万長者!
――まあ、そのくらいあり得ない話だったわけです。   
 それにしても、自分で「天皇の器でない」と失格の烙印を押しておきながら、鳥羽法皇も随分勝手なことを
……。   
    
 今回のからくりはこういうことでした。   
 一旦、雅仁親王を天皇の位に就かせ、後はその子供の守仁に。要するに雅仁は守仁に皇位を継がせるための布石として、担ぎ出されただけのことでした。   
 しかし、雅仁の即位と共に守仁の立太子も行われ、ここに崇徳上皇の「我が子を帝位に!」との夢は完全に絶たれたも同然でした。   
    
 「あの女狐め!」   
 その胸の奥に熾火のように燃え盛るのは、かつて母待賢門院から父の寵を奪い、我が身から帝位を奪い、今また最愛の我が子からも帝位を奪った美福門院への憎悪
――   
 長い戦乱の世の幕開きは既に秒読みの段階に入っていたのでした。   
    
  2003.7.1up
   
 
   
 
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