保元の乱前夜 〜摂関家の事情〜
 
   
   御堂関白とよばれた藤原道長が栄華を極めたのは遠い昔のこと。   
 一旦外戚の地位を失うと、かつての勢いはどうにも取り戻せず、ただ名跡の誉れを誇ることしかできない斜陽期の摂関家――。   
    
 時の関白藤原忠実には、二人の子息がいました。   
 長男は藤原忠通。白河法皇の養女璋子の結婚相手として、第一候補に上がった人物です。   
 そして、次男は藤原頼長。忠実が白河院の勘気を蒙り、関白を停任された頃(43歳)に生まれた子で、兄の忠通とも二十歳以上離れた親子程の年の差でした。   
 しかし、この頼長は幼い頃から学問をよく修め、「日本一の大学生(だいがくしょう)」と評されるほどの、自他共に認める秀才で、そうでなくとも、歳をとってから生まれた子は可愛いと申しますから、忠実が頼長を溺愛したのも無理はないでしょう。が、何事も過ぎたるは、不幸の始まり……。   
    
 父忠実に代り関白の座に就いた長男忠通には、後を継ぐべき男子がいませんでした。正確には正室腹に一人、妾腹に二人の男子がいましたが、後に禍根を残さないために、妾腹の二人の男子は早くに出世させていた所に、正室腹の嫡子が夭折したため、後継者となり得る男子がいなくなってしまったのです。   
 父親の忠実はそこに目をつけ、忠通に頼長を養子にするようにと勧めます。摂関家の血筋が絶えるのを防ぎ、なおかつ可愛い頼長を引き立てる――これぞ、一石二鳥を狙った策でした。   
 忠通にしても、後継ぎがないことを気にしていましたし、また父がしきりに勧めるのを無下にもできないと思ったのでしょう、忠実の言を入れて頼長を養子に迎えることを了承します。   
    
 忠通の養子となり、とんとん拍子の出世を重ねる頼長は、30歳で左大臣にまで上り詰め、その学識の確かさゆえに、世に「悪左府」と呼ばれるようになります。   
 ちなみに、この「悪」は「悪い」という意味ではなく、「ずば抜けた才能を持つ」とか「恐るべき」とか「凄い」とか、どちらかと言うと、良い意味で使われるものなので、お間違えなく!   
    
 さて、自慢の愛息のためにできる限りの布石を敷き、晴れて頼長が関白となる日を待ち焦がれていた忠実でしたが、急転直下、思いも掛けない事態が起きます。   
 もはや実子を得ることはあるまいと諦めていたはずの忠通に、47歳にしてようやく男子が生まれたのです。しかもこの後、続々と子宝に恵まれことになるのですから、人生とは、何とも皮肉なものです。   
    
 何せ子を思う親の心は、誰しも同じようなもの、忠通もご多分にもれず、自分の実の子にこそ、後を継がせたいと思うようになります。   
 それに、弟とはいえ異腹の、それも母の身分の劣る頼長に対して、忠通が肉親の情というよりも、一種の蔑みにも似た感情を抱いていたとしても、不思議ではありませんでした。   
 実際、この当時の兄弟姉妹というものは、同胞――つまり母親が同じでなければ、既に他人も同然と考えられていました。となれば、なおのこと、頼長に後は譲れないと考えるのは自然の流れでしょう。   
    
 一度気持ちが離れると、急速に溝は深まり、忠実・頼長vs忠通の対立は、摂関家内のお家騒動に留まらず、朝政にまで影響を及ぼすようになります。   
 その最たるものが、近衛天皇の后妃問題でした。   
 弟頼長の養女多子(まさるこ)が最有力候補として、ほぼ当確であったにもかかわらず、兄忠通は自分の正室の姪に当たる呈子(しめこ)を養女として、対抗馬に押し立てて来たのです。   
 両者相譲らぬ対立を憂慮した鳥羽法皇は、多子を皇后に、呈子を中宮とすることで、とりあえずこの難局を切り抜けます。が、こんな小手先だけの妥協案で、即問題解決と行くわけがありません。   
    
 案の定、頼長はことあるごとに、父忠実に自分を早く関白にしてくれるようにと迫り、忠実の方もこれまで散々に甘やかして来たわけですから、すっかり言いなりです。   
 やむなく、忠実は、いずれは忠通の子供に摂関職を返すことを条件に、関白を頼長に譲るようにと忠通に求めますが、忠通も父親としての自覚に目覚めたことでもあり、うんと首を縦に振るわけがありません。   
 「それでは約束が違う!」とさらに詰め寄るも、やはり忠通に退けられて、ついに忠実もキレてしまったのでしょう、摂関職に付随する「氏長者」の権限を忠通から強引に取り上げ、頼長に与えてしまいます。   
 「氏長者」とは文字通り藤原氏の長者のことで、本来は摂関職を継ぐ者が同時に受け継ぐものでしたが、この忠実の暴挙により「氏長者」=「摂政・関白」の図式が初めて崩れたのでした。   
    
 さらに、忠実は鳥羽法皇にも忠通の摂政解任を働きかけます。   
 「氏長者」は朝廷から任命される公のものではなく、あくまでも私的な地位ですから、長老の権限でごり押しもできましたが、こと摂政の官職に関しては、隠居の身では力の及ぶものではなく、法皇に頼る他ありません。しかし、これは法皇に退けられます。   
 法皇は忠通を摂政から改めて関白に任じ、一方では頼長を内覧とするなど、両者の面目を保ちつつ、和解を促しますが、これは結局の所、問題の先送りでしかありませんでした。   
    
 これ以後も、忠通vs頼長の冷戦は続きますが、共に自身の官位は既に頭打ちの状態でしたから、今度はそれぞれの息子達を代理に立てた出世バトルに移行して行きます。   
 忠通の長男基実・次男基房、頼長の長男兼長・次男師長、まずは年長の頼長の息子達の方が一歩リードするも、やはりそこは摂関家の子息、父の威光をバックに基実の方も凄まじい追い上げをみせます。   
 それこそ、本人そっちのけの出世レースを繰り広げる両陣営――しかし、近衛天皇の早世という予想外の事態により、新たな局面を迎えることになります。   
    
 後継天皇を誰にするか――先帝 崇徳天皇の皇子重仁か、崇徳天皇の弟雅仁の皇子守仁か、鳥羽法皇にとってはどちらも孫にあたる二人が対立候補となります。   
 そして、この皇位継承者の決定に際して、鳥羽法皇は関白忠通に意見を求め、反対に忠実・頼長父子はその議定の場から完全に排除する行動に出ます。   
 これまで摂関家の内紛には関知せず、常に両者の顔を立て、曖昧な態度で臨んできた法皇が、ついに下した裁断――それは忠通との連携でした。   
 が、そこには一人の女性【美福門院】の意思が多分に反映されていました。   
    
 少し話は遡りますが、近衛天皇は誕生して間もなく、崇徳天皇の中宮聖子(忠通の娘)の養子となっており、それ以来、忠通は生母である美福門院と友好関係にありました。   
 忠通は名目上近衛天皇の外祖父という地位を得ることになり、一方、確かな政治的基盤を持たない美福門院にとっても、摂関家という格好の後ろ盾を得ることができる――両者の利害が一致しての提携でした。   
 これも、中宮聖子に皇子がいたならば、決してありえないことでした。もし仮に、重仁の母がこの聖子であれば、当然のことながら、忠通は重仁擁立に奔走し、この後の展開はまるで違ったものになっていたでしょう。   
    
 再び話を元に戻しますと、かねてより、美福門院の養子である守仁を推して来た忠通の登用を決めた時点で、鳥羽法皇の意中の後継は守仁に絞られていました。   
 ところが、ここで忠通は一転して、守仁の父雅仁を先に位につかせ、その後、守仁に譲位させるという修正案を示します。   
 近衛天皇(弟)から雅仁(兄)、雅仁(父)から守仁(子)という段取りを踏むことで、守仁の践祚の正当性を高めると共に、今後雅仁との間にしこりを残さないために忠通がひねり出した奇策でした。   
 鳥羽法皇は、かねてより雅仁を「天皇の器にあらず」と評価していたこともあり、その擁立には消極的でしたが、苦慮の末、ついにはこの案を受け入れます。   
    
 雅仁親王の即位に伴い、忠通は関白に再任され、一方、頼長は左大臣には再任されたものの、内覧の宣旨を賜ることはできませんでした。   
 失脚とまではいかないものの、新体制からは完全に爪弾きにされた形となり、これに強い不満を抱いた頼長は、以後出仕をやめて、籠居生活に入ることになります。   
    
  2003.7.1up
   
 
   
 
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