保元の乱勃発
 
   
   崇徳上皇と藤原頼長――天皇家・摂関家双方に波乱の火種を抱えながらの船出となった後白河天皇下の新体制でしたが、それも、鳥羽法皇という絶対君主の存在があってこそ、どうにか平穏を保つことができたのでした。   
 そして、後白河天皇の即位からわずか1年――保元元年(1156)7月2日、鳥羽法皇の崩御により、時代は戦乱の世へと、まっしぐらに突き進んで行くことになります。   
    
 鳥羽法皇危篤の報を受け、その病床を見舞おうと、院の御所鳥羽殿に赴いた崇徳上皇を待ち受けていたのは、面会拒否の上に門前払いという冷酷な仕打ちでした。   
 死を目前にしてなお、自分を無視しようとする鳥羽法皇――埋めることのできないままに、深まり行くばかりの溝は、崇徳上皇にある決断を促します。   
    
 鳥羽法皇の崩御と同時に「崇徳上皇と左大臣頼長に謀反の気色あり」の噂が廟堂を駆け抜け、それに呼応するかのように、崇徳上皇はもう一つの院の御所白河殿に入り、宇治で籠居していた頼長も駆けつけます。   
 さらに、頼長の家来筋になる源為義も、主命による再三の召集に抗うことができず、嫡男の義朝を除く六人の息子達と共に馳せ参じます。   
 嫡男の義朝は、かねてより他の兄弟とは折り合いが悪く、これ以前に、領地をめぐる争いから次弟の義賢を義朝の息子の義平が殺害に及ぶなど、兄弟とは名ばかりの、殺伐とした関係にあり、今回の合戦についても、いち早く、天皇方に加わっていました。   
    
 さて、白河殿占拠の報を受けた後白河天皇方は、これを謀反と断定し、すぐさま兵に召集をかけます。   
 後白河方では、父と袂を分かった源義朝を中心に、美福門院の強い要請により、平清盛とその一門が加わり、謀反鎮圧の態勢が着々と整えられていました。   
    
 平清盛が一門総出で後白河方についたことは、少なからず崇徳上皇の陣営に動揺を与えました。   
 というのも、清盛の継母にして、先代当主忠盛の正室宗子は重仁親王の乳母であり、清盛はともかく、宗子の実子である頼盛とその一党については、必ずや上皇側につくものと目されていたからです。   
 弟とはいえ正妻腹の頼盛は、当時の平家一門においては、清盛と同等に近い勢力を保持していました。   
 あるいは平家が二分される危険性も憂慮しつつ、あえて天皇方につくことを決断した清盛にとって、頼盛が自分に従ったことは喜ぶべきことながら、反面、それを指示した義母に大きな借りを作ることになったのでした。   
    
 平家の主力が天皇方についたことで、いささか兵力において劣勢気味の上皇方では、源為義・八郎為朝父子が「夜討ち」をかけることを進言します。   
 これは、陣を張る白河殿が守るに難く、籠城には不向きであることも踏まえた上での、最良の策と思われました。   
 ところが、頼長はこの案をにべもなく一蹴します。   
 一つには、忠実・頼長父子の拠点である宇治や奈良からの援軍を待ち、体制を整えてからの方が良いという、理に適った理由もありました。しかし、   
 「皇位継承という大事のための戦に、夜討ちのような卑怯な戦法は似つかわしくない」   
 戦のプロフェッショナルを相手に、頼長はしたり顔で、こんな講釈を垂れたと言います。   
    
 一方天皇方でも、同じ頃、作戦会議が開かれ、やはり源義朝が「夜討ち」を主張していました。さすがは親子、敵味方に分かれても、考えることは同じです。   
 が、こちら側では、後白河天皇の参謀役の信西(しんぜい)が支持に回り、「夜討ち」は実行に移されることになります。   
 信西は権門の出ではありませんが、頼長に負けず劣らずの学識者で、僧形の身ながら鳥羽法皇に取り立てられ、また、雅仁の乳母を妻にしていたこともあり、雅仁の即位後も補佐役として、その意思決定にも大きな影響を与え得る立場にありました。   
 戦のスペシャリストである義朝の意見を尊重した信西、持論を展開し為義を退けた頼長、その真意はともかく、二人の判断の相違が、勝者と敗者の明暗を決定付けたと言えるでしょう。   
    
 7月11日未明、義朝の勢の夜襲により、合戦の火蓋は切って落とされます。   
 その戦闘の様子は『保元物語』に多く語られていますが、「夜討ち」に否定的だった頼長が、よもや敵の「夜討ち」を予想できるはずはなく、パニック状態に陥ったことは、想像に難くありません。   
 また、為義以下の源氏武者も、既に勢力の大半が敵方の義朝に帰属していたため、劣勢は否めず、そんな中、為義の八男である鎮西八郎為朝が一人果敢に応戦し、天皇方の兵を蹴散らす姿に、紙面の多くが割かれています。   
    
 兵力において圧倒的優位を誇るはずの天皇方も、為朝の奮戦には思いのほか手こずり、最後の手段として白河殿に火をかけます。   
 途端に上皇方は総崩れとなり、我先に逃げ出す始末。   
 崇徳上皇も火の粉舞う御所から命からがら脱出し、同母弟の覚性法親王が仁和寺御室であったことから、そこへ逃げ込み、慌てて出家を遂げますが、すぐに天皇方に拘束されます。   
 一方、馬に乗って逃亡を図った頼長の方も、途中で顔面を矢で射られる重傷を負い、その3日後に死去するという悲惨な末路が待ち受けていました。   
    
 こうして、平安京始まって以来の洛中での合戦は、後白河天皇方の大勝利をもって、その決着を見たのでした。   
    
  2003.7.1up
   
 
   
 
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