|
1159(平治元)年12月9日夜。
後鳥羽上皇の院御所―三条烏丸殿―に軍勢が押し寄せ、瞬く間に包囲されました。
ターゲットは信西の首。
直前の12月4日に平清盛が熊野参詣へと出立しており、その留守を狙った信頼と義朝の急襲でした。
この日、出仕していた信西の息子俊憲は、突然の襲撃に身の危険を感じて、すぐさま縁の下に避難。
ところが、やがて、火をかけられてか、御所が火事に見舞われ、このまま焼死するよりはと、覚悟を決めて縁の下から這い出しました。
すると、運良く(?)辺りには兵士の姿も見えなかったので、そのまま逃走して、どうにか無事生き延びることができたと、後年に自己の体験を語ったとか。
院御所というからには、この三条烏丸殿には後白河上皇を始め、その姉の上西門院なども日頃から住まっていました。
『平治物語』などによれば、放火した後、後白河上皇を一本御書所(いっぽんのごしょどころ)という、別の御所に幽閉したとありますが、上皇を焼き殺してもかまわないと思っていたのならそれもありでしょうが、普通は貴人方を先に移しておいてから、火をかけるのが得策というものです。
しかし、比較的信憑世のある『愚管抄』の記録を見ても、火事の最中に後白河上皇と上西門院を車で移動させ、ご丁寧にも、精鋭の武士を護衛につけていたというのですから、何という手際の悪さでしょう。
おかげで警固も手薄になり、俊憲のみならず、信西の子息達は、全員無事に脱出することができたのですから、この火災は、放火というよりは、不慮の失火だったと見るべきかもしれません。
で、肝心の信西ですが、事件発生時にはどうやら三条烏丸殿にはいなかった、というのが正しいようです。
信頼のリサーチ不足か、誰かが情報をもらしたのか、はたまた信西の第六感か、理由は定かではありませんが、ともかくも院御所には現れず、いつの間にやら京を脱出、宇治田原から近江の信楽の辺りまで逃げ延びていました。
さて、ここで「黒衣の宰相」の本領を発揮して、逆襲に転じるのかと思いきや、信西は共に落ち延びてきた従者を前に、自害する旨を告げます。
驚いた従者達は、唐(中国)へ渡ってでも生き延びるようにと哀願しますが、信西はこれを聞き入れず、潔い死こそ本望と覚悟の程を語り、従者達に穴を掘らせると、わずかな空気穴を残して、自分をその中に生き埋めにさせます。
極楽往生を願って、最期のその時まで念仏を唱え続けるために開けさせた空気穴でしたが、あにはからんや、その穴を通して、追っ手が差し迫っていることを知らされます。
ここまで信西を運んで来た輿舁(こしかき)が、執拗な尋問を受けて、つい口を割ってしまったのでしょう。
ひたすら念仏を唱え、餓死するつもりだった信西も、もはやこれまでと、携えていた腰刀を胸に突き立て、自ら命を絶ってしまいます。
程なく、到着した捜索隊によって、信西の死骸はすぐに掘り返され、首はその場で切断され、京に持ち帰られました。
信頼や義朝らの立会いのもと、首実検が行われ、信西本人のものであると確認されると、見せしめのため、京中を引き回し、獄門にかけられることになりました。
梟首(きょうしゅ=さらし首)という刑罰ですが、これ以前に執行された記録を探しても、およそ50年は遡らなくてはなりません。
源為義を始め、多くの死刑者を出した保元の乱の時でさえ、ただの一人も梟首にはされていないことを思えば、信西に対する恨みの程が伺い知れます。
しかし、これを単純に、信頼や義朝によるものと断じてよいものやら…。
信頼にしてみれば、信西が死んだ時点で、既に十分目的は達成されたわけで、一方の義朝にしても、恩賞に預かることが第一でした。
それに、そもそもが、信頼のような柔な育ちの公達に、50年もの間、一度も行われていなかった梟首の刑を、執行するという発想自体、あったかどうか……。
仮に、義朝に進言されても、「何を野蛮な!」と退けそうにも思われます。
では、いったい誰が、信西を梟首にしたのか?
ミステリードラマにありがちな落ち――被害者ぶってるあの方が「実は……」
そんな展開が待ち受けているかも?
|