|
1159(平治元)年12月25日夜。
一輌の女車が密かに内裏を出て、六波羅の館に招き入れられました。
中に乗っていたのは、誰あろう、二条天皇その人でした。
今回の行幸(天皇のお出かけ)は、得意の絶頂にある信頼を孤立させるために仕組んだマル秘大作戦。
その実行に当たっては、綿密な計画が立てられ、カモフラージュに火事まで起こす、といった念の入れ様でした。
それにしても……、そんな企みが、裏で同時進行していようとは露とも知らず、懸命に消火活動を指揮していた信頼……、何だか哀れですね。
さて、二条天皇の脱出劇が完了するを待って、一人の使者が後白河上皇の許に送られました。
天皇の六波羅行幸――、この事実を知らされた上皇は、予想外の展開に、明らかな動揺を見せます。
これから何が起きようとしているのか……、それも即座に察したことでしょう。
上皇は、大きな思い違いをしていました。
これまで、信西一人が目の上のこぶであり、その信西さえいなくなれば、後は、何でも自分の思い通りになると……。
しかし、現実は……、そんな簡単なものではなかったのです。
単に信西は代弁者に過ぎず、その意見は公卿全体の総意でした。
だからこそ、彼らは沈黙を通していたのであって、全権を委任していたスポークスマンが誅殺された今、後白河上皇や信頼の暴走を、黙って見過ごしにするわけがありませんでした。
一たび、公卿達が結束して“NO”と言えば、たとえ上皇といえども、無理に押し通すことはできない――この時、後白河上皇は自らの手にする権力が、いかに頼りないものであったかと痛感したことでしょう。
去就を迫られた上皇は、結局、信頼等を見捨てる道を選びます。
源氏の武力が、平家に劣ると見たわけではありません。
公卿達の支持の得られない政権は、もはや“死に体”、存続は不可能であると悟ったからに他なりません。
そして、六波羅に赴くことなく、かつて兄の崇徳上皇がそうした様に、同母弟が御室を務める仁和寺に逃れたのは、信頼に対する精一杯の思い遣りだったと言っては、良く言い過ぎでしょうか。
程なく、二条天皇の六波羅行幸の知らせが、貴族社会全体に発せられるや、それを聞きつけた公家諸侯は、我も我もと、急ぎ六波羅に駆けつけます。
そして、事ここに至って、ようやく信頼も義朝も、二条天皇のみならず、後白河上皇までも自分達の許を去ったことに気づきます。
ただ呆然とするばかりの信頼――。
能なし男の甘言に乗せられた己の愚かさに、思わず歯噛みする義朝――。
二人の胸中を去来するのは、全く異なる思いでした。
この期に及んでも尚、今一度、上皇を頼みに投降して、この際、出家でも何でもして、とにかく命だけは助かりたいと願う信頼――。
しかし、義朝は、この時既に死を覚悟していました。
保元の乱に際しても、文臣には流刑という寛大な処置が取られた一方で、武家には断罪が下されています。
「己の武勲を引き換えにしても」と願った父の助命も、ついに叶えられなかったことを思い返せば、自らに待ち受けているのは、間違いなく極刑――それ以外、考えられませんでした。
どうせ助からない命ならば、武士の名誉にかけても、せめて清盛に一矢も報いたい――。
義朝は一族郎党を喚起して、合戦に突き進み、それを制することもできなかった信頼は、出陣のどさくさに紛れて、後白河上皇の避難先である仁和寺へ逃げ込みます。
この合戦の模様は『平治物語』に詳しく描かれていますが、特に義朝の長男で“悪源太(あくげんた)”の異名を取る源義平の活躍を大きく取り上げ、清盛の嫡男平重盛との一騎打ちなどは、名場面の一つに数えられています。
しかし、朝敵となった源氏方に勝ち目があろうはずがありません。
やがて、敗色濃厚と見極めた義朝とその一党は、北を指して落ち延びて行き、世に【平治の乱】と呼ばれる合戦は、ここに終結を見たのでした。
|