平治の乱 〜敗者の処分〜
 
   
   六波羅をめぐる激しい攻防も、結果は、源氏方の惨敗という形で幕を閉じた平治の乱。
 合戦後には付きものの敗者の処分は、先の保元の乱にも勝る厳しいものになりました。
 
 仁和寺に逃げ込んだ信頼は、合戦の翌日の12月27日に清盛一党に引き渡され、一言の弁明も許されぬまま、即日、六条河原において斬首されました。
 取調べなしの死刑執行、「口封じ」であったことは間違いないでしょう。
 
 が、果たして、信頼は本当に謀反人であったのか
……
 『信西抹殺』は、いうなれば後白河上皇の意向をくんで、代って実行に移した感があり、もしこれが真実であったとすれば、事の功罪はともかく、上意の許に行われた粛清を、謀反と呼ぶのはいささか酷のような気がします。
 むしろ、公卿達が上皇に三行半を突きつけたことの方が、主君に反旗を翻すという点では、よほど謀反の名に値する行動と言えます。
 その上、合戦そのものも、自暴自棄となった義朝の暴走であったとすれば
……。自ら望んで行ったわけでもないことのために、なぜ自分一人が裁かれなくてはならないのか……、信頼は釈然としない思いだったことでしょう。
 
 以上の点を突き詰めていくと、処刑を前に、何の取調べも行われなかった理由も、何となく見えて来ます。
 恐らくは、こうした様々な裏事情を、公の場で暴露されては困ると考えたからでしょう。
 あくまでも信頼を謀反人として裁き、今回の混乱の責任を全て負わせる
――それが、上層部の描いたシナリオで、その実行を任されたのが清盛でした。
 当時の清盛の立場は、いわば天皇方の傭兵。罪人とはいえ、信頼は一度は公卿に列せられたことのある人物ですから、それよりずっと下位である清盛に、その生殺与奪権まで与えられていたとするのはどんなものでしょう。
 
 保元の乱からわずか3年。この短い歳月の間、右肩上がりの人生を邁進しながら、一転、最後には人の心の地獄を見た信頼は、この時まだ27歳でした。
 若さゆえに道を踏み誤り、愚かさゆえに長く後世に名を残したその一生は、現代に生きる私達にも、何か訴えかけてくるものがあるように思われます。
 
 話は変わって、源氏の残党の方に目を向けますと、義朝はわずかの兵と共に、洛北大原から琵琶湖に出て、さらに東国に向けて逃亡を続けました。
 しかし、途中、嫡男頼朝(三男)は雪中の行軍中に脱落し、また、次男の朝長も逃亡中の小競り合いで受けた傷を悪化させ、やむを得ず、義朝自らが手にかけることになるなど、数々の悲運に見舞われていました。
 そして、義朝自身もまた、尾張国で討ち取られることになります。
 『平治物語』が伝えるところでは、忠臣鎌田政家(正清)の舅長田忠致一族の姦計に嵌り、あっけない最期だったようです。
 京に送られた義朝の首は、年が明けて早々の1月9日に、梟首の刑に処されています。
 
 一方、平治の乱では大活躍だった悪源太義平は、父義朝とは途中から別行動をとり、飛騨国に逃れていました。
 義朝の命により、再び京に攻め上るべく、兵を集め反撃に出る準備を整えていたものの、そこへ舞い込んできた父の死の知らせによって、せっかく集まった同志も次々に離脱し、結局、計画は頓挫。
 孤立無援となった義平は、せめて父の敵を討つべく、単身、京に再び舞い戻りますが、平家への報復の機会を求めて暗躍しているうちに、その所在が明らかとなり、ついには捕縛、斬首の刑に処されます。
 享年20歳。戦いに次ぐ戦いに、若い命を燃やし尽くした一生でした。
 
 そして、父義朝とはぐれた頼朝はといえば、父の跡を追ううちに、残党狩りの兵に捕えられ、やはり京に送られることに。
 父も兄も既にこの世の者ではなく、嫡男である頼朝の命も、もはや風前の灯火という所でしたが、未だ14歳の少年ということもあって、死一等は減じられ、伊豆への流刑という寛大な沙汰が降ります。
 平清盛の継母池禅尼の、必死の命乞いによるものと『平治物語』などは伝えていますが、真相はどうだったでしょう。
 
 ここで、どうしても気にかかるのが、この当時の清盛の置かれた立場です。
 確かに平治の乱において、一番の戦功を与るべきは平家一門であり、その棟梁である清盛でしょう。ゆえに、戦犯の裁きを一任されるのも、まるでありえないことではありません。
 しかし、今回の戦闘は公卿からの要請があって、これに応じたものであり、あくまでも、主導権は二条天皇を担ぎ出した公卿達にありました。
 保元の乱においても、清盛に叔父の忠正を、義朝に父為義を斬らせたのは、勝利者側の主要人物
――信西等でした。
 ならば、平治の乱においても、罪人の生殺与奪権は、全て二条天皇、というよりは、その側近達にあったという見方もできるはずです。
 この場合、池禅尼の意をくんで、清盛自身が頼朝の助命を願い出た可能性はありますが
……
 
 さらに、もう一つ忘れてはならないのが、義朝の愛妾常盤御前とその息子達の処遇でしょう。
 義朝敗走の知らせを受け、三人の子供を連れて、一旦は京から逃れた常盤でしたが、母親が替りに捕らえられたとの風聞を耳にして、京の六波羅へ自ら出頭します。
 この常盤御前は、元は九条院(近衛天皇妃:呈子)の雑仕女でしたが、呈子の養父である関白藤原忠通が主催する美人コンテストで、都中から集められた千人の女性の中から、晴れて一位に選ばれたという美女中の美女。
 その美貌に目をつけた清盛が、三人の子供の命と引き換えに、自らの愛妾となることを強要したという、これまた有名な話がありますが、こちらもそのまま鵜呑みにするのはどんなものでしょう。
 
 嫡男の頼朝が伊豆流刑となった時点で、それよりもさらに幼ない庶子を死刑にする大義名分など失われています。また、先にも触れた通り、清盛に生殺与奪権などなかった可能性もあります。
 ただ、常盤が清盛の娘を産んだのは事実のようですから、二人の間に男女関係があったことは認めざるをえません。
 しかし、これも、義朝に先立たれ、生活基盤を失った常盤を支援する名目を得るため、あえて関係を結んだという見方もできます。
 二人の間に愛があったかどうか、それは本人同士にしかわからないことですが、最終的に藤原長成という公家の、後添えとはいえ、正妻の座に納まっているのは、元清盛の愛妾という立場が優位に働いたといえます。
 
 
 長々と、あれこれ書き散らしてしまいましたが、こうした様々な憶測を呼ぶのは、当時を記す公卿日記が現存しないことに起因します。
 保元の乱については、平信範著『兵範記』がその詳密な記述で、虎の巻の役割を果たしましたが、よりによって、平治の乱の前後数年分は闕巻しており、また、同時代の中山忠親著『山槐記』も前後一年余りが闕巻と、どういうわけか、この時期は魔の空白地帯と化しています。
 平治の乱について触れた歴史書はそこそこあるものの、後年に編纂されたものがほとんどで、ほぼリアルタイムに書かれる公卿日記とは、その信憑性に関して、明らかに開きがあります。『平治物語』にいたっては言わずもがなです。
 ただ、実体験者からの聞き取り調査を綿密に行ったとされる『愚管抄』などは、比較的信頼のおける史料と位置づけられ、その記録により、ほぼ確実とされることを抜き出してみますと、
 
  (1) 藤原信頼は乱直後に処刑
  (2) 源義朝は討ち取られ梟首
  (3) 藤原師仲・成親などの文臣は解官・流罪
  (4) 頼朝は死刑にはならず、伊豆へ流刑
  (5) 常盤の三人の息子は助命され、それぞれ寺へ預けられた
  (6) 常盤は清盛との間に娘を儲けた後、大蔵卿藤原長成に嫁し、
その子能成を出産

 と、このくらいでしょうか。
 その他については、これといった証拠資料はなく、いずれも伝承の域を出ないものが、今や、史実として定着している感があります。
 
 『平治物語』は鎌倉時代の成立とされていますから、天皇家や公家の力が衰退し、平家が専横を敷いた時代を知るがゆえに、清盛の地位を必要以上に高め、横柄な暴君に仕立てたとしても不思議ではないでしょう。
 おまけに、その平家を倒した頼朝、あるいは鎌倉武士に正当性を与える効果もあるとくれば、後世の情報操作の疑いは否定できません。
 
 平治の乱の真の勝利者が、二条天皇とその取り巻き達とすれば
……
 源氏が倒れ、優位に立ったとはいえ、この時の平清盛は、ようやく公卿への道が開けたばかり
――天下人など、夢のまた夢の話だったのです。
 
    
   
 
   
 
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