天皇×上皇の対立 〜世紀の親子喧嘩〜
 
   
   平治の乱の終結により、ようやく平穏に立ち戻るものと思いきや、そう簡単にいかないのが人の世の定め。争いの種は次々に芽生えてくるものです。
 それもこと天皇家内部のことになると、本来、他愛もない親子喧嘩で済まされるべき些細な行き違いも、一転、高度な政治問題に発展してしまうのですから、何とも厄介なものです。
 
 事実上、子(
天皇)の父(上皇)への反抗であった平治の乱――これ以後、両者の間には深い亀裂が生じることになりました。
 
 二条天皇18歳。
 そろそろ親離れして、自立の道を歩み始めたい年頃の息子。
 後白河上皇33歳。
 まだまだ精力旺盛で、子供の言いなりになるものかと、負けん気だけは人一倍の父親。
 これも、天皇と上皇という肩書きをはずせば、世間的に見て、よくありがちな父子の姿といえます。
 
 さて、親のプライドにかけて、劣勢を盛り返そうと必死になる後白河上皇でしたが、いかんせん、一度失った公卿達の信頼を回復するのは、並大抵のことではありません。
 これまでは、何事もまずは院御所で諮られていたものが、乱以後は、二条天皇が直接裁可を下し、上皇はまるで無視されることに。
 二条天皇も成人の域に達して、もはやわざわざ上皇にお伺いを立てる必要もなしと、引導を渡されたも同然でした。
 信西と信頼という両輪を失い、側近達にもそっぽを向かれては、これといった対抗策も立てられず、日増しに増長する天皇の側近達に怒りをおぼえつつも、じっと我慢する他ない上皇。
 それが、図らずも、一つの事件が苦境脱出への鍵となるのでした。
 
 今様を好み、どこか庶民的な所のある後白河上皇は、屋敷の桟敷から通りを行き交う人々を眺め、時には言葉を交わしたりすることを楽しみにしていました。
 ところが、そのようなことは上皇の身分にあるまじきことと、藤原経宗、藤原惟方という二人の公卿の命令によって、桟敷に板が打ち付けられ、外を見ることができなくなったのです。
 経宗は二条天皇の生母藤原懿子の弟で権大納言、惟方は乳夫で参議と、共に天皇第一の側近。その彼らが、あからさまに自分を蔑ろにする行動をとったのですから、これまで我慢を続けていた後白河上皇の怒りも、遂に頂点に達します。
 
 このまま泣き寝入りしたのでは、面目は丸つぶれ、マジで隠居の身に追い遣られると危機感を持った上皇。が、未だ公卿の信頼を取り戻すには至っておらず、一歩間違えば、再び公卿達の反感を買うことになりかねません。
 となると、残る手段は武力行使あるのみ。そこで、恥も外聞もかなぐり捨てて、平家の家長である平清盛に泣き付きます。
 かくして、上皇の命を受けた清盛によって、禁中において経宗と惟方は逮捕され、それぞれ、阿波と長門への流刑に処されたというのが、今回の事件の概要なのですが
……
 
 ここで気になるのは、他の公卿の動向です。
 確かに経宗と惟方の行為は、いささか行き過ぎの感もあり、上皇への不敬罪に値するものでしょう。
 が、それにしても、天皇の側近を、よりよって禁中で逮捕というのは、ゆゆしき事態です。抗議の声が上がっても不思議ではないでしょう。
 逮捕の役を仰せつかった清盛にしても、いくら上皇の頼みとはいえ、天皇の逆鱗に触れるかもしれないことを、簡単に引き受けるとも思えません。
 
 しかし、逮捕は実行され、二人の処罰についても、大した反対もなしに、流罪も執行されているのですから、今回の逮捕劇については、公家社会全体が、これを支持したということになります。
 この場合にも「出る杭は打たれる」的な発想
――つまり、天皇の外戚あるいは乳夫という立場を利用して、力をつけつつある新勢力を封じ込める意味合いも否定できませんが、それに加えて、貴族の多くが、二条政権から離反し始めていたという見方もできます。
 父上皇に対するあからさまな反抗に、道義的な疑問を抱いたというのも、まあ、なきにしもあらずでしょうが、実際は、もっと複雑かつ高度な政治問題が背景にあったのでした。
 
 少し思い出していただきたいのは、近衛天皇の逝去に際して、二条天皇こと守仁親王が後継に選ばれた経緯です。
 守仁親王は生れてすぐに生母を亡くしており、祖父鳥羽法皇の寵妃にして、近衛天皇の生母である美福門院の養子になっていました。
 その美福門院の強い押しもあって、天皇の位をゲットするに至ったわけで、即位に際しても、近衛天皇と同じく、美福門院を母とする女+朱子内親王を正妃に迎えるなど、絶えず女院の影が見え隠れしています。
 二人の間に皇子が生れれば、それは女院には実の孫であり、いずれはその子を次の天皇にと、自らの血筋が受け継がれることを期待してのことに他なりません。
 ところが、天皇となり、実父の後白河上皇も退けた二条天皇は、そんな美福門院の期待を裏切る行為に出ることになります。
 かつて父後白河上皇も犯した間違い。
 帝王の座にあるからこそ、ついつい、忘れてしまいがちな朝廷内の不文律。
 
 こうして話は『平家物語』が伝える有名な艶聞
「二代后」へと繋がって行くことになります。
    
  2003.8.18up
   
 
   
 
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