天皇×上皇の対立 〜あっけない幕切れ〜
 
   
   永万元(1165)年に入り、再び二条天皇は病の床に伏すことになりました。
 それもかなりの重症で、政務の続行は無理との周囲の判断から、6月25日、皇子順仁
(のぶひと)への譲位が実行されることになりました。
 しかし、この皇子は前年に生れたばかりの数え年わずか2歳。しかも、中宮育子の養子とはなっていたものの、実母が下級貴族の出自であったため、立太子もなされておらず、本来であれば、皇位継承の難しい立場でした。
 
 この当時、皇位継承権を有する者としては、直系の順仁の他、以仁
(もちひと)を始めとして異腹の弟宮達がおり、母の出自からいえば、以仁が有力な対立候補となる資格を有していました。(小弁局の皇子ではないのがミソ)
 が、病床とはいえ、二条天皇が存命中のこと、異母弟への譲位には難色を示したであろうことは想像に難くなく、また、後白河上皇の復権を恐れる側近にとっても、これは断固阻止すべきことでした。
 となると、ここは、中宮育子の養子という大義名分を頼りに、順仁を擁立する他なく、17日に急ごしらえで立太子の儀を行い、どうにか25日の譲位に持ち込んだのでした。
 
 そして、譲位より一月後の7月28日、二条天皇崩御。享年23歳でした。
 生前「天子に親はなし」と言い捨てたとは『平家物語』の虚構かもしれませんが、生まれてすぐに母と死に別れ、父との確執に明け暮れた後半生を見れば、その言葉どおり、親子の情愛には縁遠い一生だったといえます。
 
 さて、英邁と評された二条天皇の早すぎた死、そして幼帝《六条天皇》の即位が、すぐさま「後白河院政復活!」の烽火
(のろし)となったのかといえば……、実はそうでもないのです。
 二条天皇を欠いたとはいえ、摂政基実=平清盛の提携はなおも維持されており、執政の基実を清盛がサポートする体制が継続する中、清盛は武門の出には類を見ない、権大納言への昇進を果たすことになります。
 これは、清盛が基実の舅であったことが効を奏したのもありますが、むしろ、清盛の有する武力そのものが、朝廷にとって、もはや欠くべからざるものとなっていたことを表しています。
 
 というのも、近年、南都北嶺の寺社勢力の台頭が目覚しく、神輿や神木を奉じての入洛・強訴が頻発していました。
 例に挙げれば、二条天皇崩御の際に起きた、興福寺と延暦寺の
「額打論」
 
 これは『平家物語』巻一にも取り上げられた有名な騒動ですが、天皇の葬送にあたって、その墓所に、
     1.東大寺
     2.興福寺
     3.延暦寺
     4.園城寺
(三井寺)
と以上の四寺が、順に額を打つ慣例になっているものを、延暦寺がこの順番を違えて、興福寺より先に額を打ったのが事の発端でした。
 
 藤原不比等
(淡海公)の御願寺である興福寺は、年来、摂関家の庇護の許にあり、聖武天皇が創建した東大寺は別格として、その他の中では、最上位に位置する寺院との自負がありましたから、この時の延暦寺の僭越(せんえつ)には、当然の如く怒りを覚え、その場で、延暦寺の額を打ち壊してしまいました。
 こうなると、延暦寺側ももちろん黙ってはいません。
(自分達から喧嘩を売っておいて何ですが…)
 比叡山から衆徒を大挙動員して京に乱入してくると、興福寺の末寺
(傘下)である清水寺に押し寄せ、仏殿から僧房までことごとく焼き払うという暴挙に出たのでした。(坊さんが火付けとは…何と罰当たりな!)
 まあ、こういう時の急先鋒になるいわゆる僧兵は、普通の学僧とは違い、頭を丸めただけのならず者のようなもので、それも神仏の威信を笠に来てやりたい放題と、質の悪いことこの上なし。
 かの白河法皇が、自分の思い通りにならないものとして
「賀茂川の水の流れ」「双六の賽の目」と共にこの「僧兵」を挙げたのは、あまりに有名な話です。
 保元の乱以来、悪化の一途をたどる京中の治安の安定のためにも、「目」には「目」を…、有数の武力を誇る平家一門に、防御の要の役割を期待する声は日増しに高まり、これが一気に、清盛を政治の表舞台に押し上げることになったのでした。
(都の疫病神も平家には福の神!?)
 
 しかし、このまま基実=清盛の二頭体制が続くかと思われた所に、またしても予想外の展開が!
 永万2(1166)年7月26日、摂政の藤原基実が急逝。二条天皇の後を追うかのように、24歳の短い生涯を閉じたのでした。
 苦心の工作で嫁がせた清盛の娘は、この時点で11歳。もちろん後継ぎの男子を得るに至らず、また、先妻
(藤原信頼の妹)の子の基通もまだ7歳と年少でした。
 そのため、摂政・氏長者は、基実の1歳下の弟の基房が継ぐことになったのですが、この基房は、元来、院の近臣という立場にありました。
 それも信頼厚い
(つまり何でも言いなりのイエスマン)とくれば、後白河上皇の意向は、朝政にもストレートに反映されるようになり、今度こそ「院政復活!」へと向かうのは、もはや、止めることのできない流れでした。
 
 意気揚々の上皇は、手始めに、先年の粛清により解官・流罪となっていた近臣らの地位を回復させ、一方では、あの小弁局が生んだ5歳の六宮憲仁
(のりひと)の立太子も敢行。
 3歳の幼帝の皇太子ですから、叔父に当たる後白河上皇の皇子が候補になるのは自然の成り行きとはいえ、以仁ら三人の兄宮を差し置いてこの六宮が擁立されたのは、その生母である小弁局こと平滋子への寵愛の深さもさることながら、清盛と平家一門を味方につけるためには、その縁に繋がる憲仁親王でなければならなかった、というのが実情でしょう。
 立太子に際して、清盛が春宮坊の長官である春宮大夫に配され、乳母には嫡男重盛の妻が選ばれるなど、春宮憲仁の周囲は平家一門で固められている所から見ても、それはまず間違いのないことです。
 
 武力を持たない後白河上皇にとって、平清盛との提携は必須でした。幾度となく繰り返された紛争にあって、常にその勝敗を左右したのが、他ならぬ清盛という存在であることを、上皇もよくよく身に染みていたのでしょう。
 基実の死により、所領の相続問題が発生した際にも、
殿下渡領(でんかのわたりりょう)と呼ばれる氏長者に付随する部分については摂政基房への譲渡に同意したものの、残る大部分は近衛家の家領であり、遺児の基通に継がせるべく、後家の盛子の管理下に置くとの清盛の主張に対して、基房から抗議があったにも関わらず、後白河上皇がこれを容認したのは、ひとえに、清盛を敵に回したくないという意思の表れに他なりませんでした。
 
 二条天皇の崩御により乳夫の地位を失い、摂政基実の死により摂関家の外戚の地位までも失った清盛が、一転、次期天皇は義理とはいえ甥に当たり、その乳夫の座には嫡男重盛が就くというめぐり合わせの不思議。
 しかし、それもこれも
“アナタコナタ”の気配りの成せる業であり、以後、これまで慎重に積み重ねて来た苦心の布石が、一つまた一つと、その威力を発揮して行くことになります。
 
 ここに後白河=清盛のホットラインもようやく完成を見るわけですが、さて、次はいよいよ
平家時代へ突入!!と行きますことやら……
 
 
    
  2003.10.31up
   
 
   
 
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