天下人への道 〜最後の試練〜
 
   
   改元により仁安と改まった1166年11月、清盛は内大臣に任じられました。
 待望の大臣任官。
 しかし、この昇進人事に、公家諸侯が諸手を挙げて賛同するはずもなく、不満分子の中には、宮廷行事をボイコットして、解官の処分を受ける者も出る始末でした。
 それでも、摂関家を始めとして、内大臣就任にあからさまな反対の声が上がらなかったのは、この後間もなく行われる太政大臣への昇任が、既に筋書きに盛り込まれていたからでしょう。
 
 というのも、この太政大臣は、名目上は律令制における最高官職とはいえ、決まった職掌はなく、空位のままにされることも珍しくない
(要は居ても居なくてもどちらでもよい)、いわゆる名誉職の色彩の濃い役職でした。
 
官職命!の公卿達にとって、清盛の先例無視の昇進は脅威そのもの。
 これ以上、武門に要職を押さえられたのではたまらない
->->->->->それなら、いっそ名誉職に祭り上げてしまえ!とでも考えたのでしょう。
 
 実質的な最高官職である摂政関白は、摂関家の世襲と決まっている以上、はなから望めるはずがないものの、左右の大臣も藤原氏がガッチリと抱え込んで離そうとはしないとあっては、もう八方塞りの頭打ち状態。
 苦肉の策で、摂関家と姻戚関係を結び、外戚としてこれを操ることを目論んでみたものの、婿の基実の急死でそれも頓挫して、もはや打つ手なし。
(後に、自分自身が摂関家の養子になるという仰天の裏技を考え出した人物もいますが…)
 そもそも、父祖の代から、事あるごとに「武門のくせに…」と蔑まれ続けてきたのですから、こうなったら、形骸化著しい官僚制度など「こちらから見切りをつけてやる!」と清盛も開き直りの心境だったのではないでしょうか。
 「名より実」
―― 内大臣任官により、春宮大夫を重盛に譲り、太政大臣への昇進により、重盛を大納言に就任させている所などを見ても、確実に自身の地位を次代へ引き継がせることに重きを置いていたように思われます。
 それは同時に、重盛こそ自分の後継者であることを、世間に浸透させる意味合いもありました。
 
 後世、骨肉の争いに明け暮れた源氏に対して、平家は常に一致団結していたように語られていますが、実際の所は、一門の中でも様々な葛藤が渦巻いていました。
 重盛が清盛の正室時子の子でないために、時子やその弟の時忠とはあまり折り合いがよくなかったり、あるいは、清盛の異母弟で、嫡妻
(藤原宗子=池禅尼)の子である頼盛との間にも、微妙な温度差があったりと…。
 このような不協和音を懸念した清盛は、自分の目の黒い内に、将来の道筋を明確にしておきたいとの思いから、いち早く重盛の後継を宣言することで、世代交代を円滑に進めようと考えたのでしょう。
 その後まもなく、海賊追討の宣旨が重盛に下されているのも、世上に不穏の動きがあってのものではなく、元々清盛に下されていた宣旨を、重盛に改めて与えた
―― つまり、重盛の家督相続が公式に認められたことを意味しています。
 そして、一連の下準備が整った仁安2(1167)年5月、清盛は早々に太政大臣を辞職しています。その在位期間は、奇しくも内大臣の時と同じ、わずか3ヶ月でした。
 
 といっても、これは完全な政界からの
引退 を意味するものではありません。
 それが証拠に、当時蔵人頭であった平信範が、その後も足繁く六波羅に出入りしており、依然として、清盛が何かにつけ諮問を受ける立場であったことは、彼の著書『兵範記』により明らかです。
 朝臣である限り、逃れることのできない朝廷内の不文律も、臣籍を離れてしまえば、その束縛にとらわれる必要もなく、自由な政治活動が可能でした。
 かつての信西がそうであったように、ここからが政治家“清盛”の腕の見せ所と、心も新たに、次なるステップにと夢を膨らませていたことでしょう。
 ところが
……、やはり、世の中というものは、そう簡単に思い通りに運ぶものではありません。
 
 翌仁安3(1168)年に入り、清盛は、突如として病の床に伏したのでした。
 『玉葉』や『兵範記』によれば、2月初めに「寸白」という寄生虫病を発症して、数日の内に危篤状態に陥ったとあります。
 重盛以下の親族が、揃って病床に駆けつけたと言いますから、その病状は生死も危ぶまれるほど深刻なものだったのでしょう。
 折りしも、後白河上皇が熊野参詣で京を離れていた最中のことで、「清盛倒れる!」の急報には、さすがに公卿諸侯も慌てふためき、かの皮肉屋の九条兼実をして、「天下の一大事」と言わしめるほど、事態は切迫していました。
 平癒を願い様々な祈祷が行われ、その甲斐あってか、一度は持ち直したものの、それも束の間、再び悪化の一途をたどるに及び、清盛はついに出家の道を選びます。
 51歳での出家遁世。妻の時子も共に出家したと伝えられています。
 そして、この時の授戒役が天台座主明雲。後の騒乱に、しばしば登場することになる迷
(?)僧と平家との関わりのこれが最初でした。
 
 さて、出家から4日後に、ようやく熊野参詣から戻った後白河上皇が、急ぎ清盛の病床に駆けつけました。
 上皇は清盛の回復を祈って、すぐさま大赦の令を発していますが、これは、摂関以外の臣下の病には異例の措置で、大いに周囲を驚かせました。
 しかし、それ以上に驚くべきことが、この翌日に発表されたのでした。
 
「憲仁親王への譲位」
 皇太子に立坊された時からの既定の路線とはいえ、これはあまりに早急な交代劇でした。
 六条天皇5歳、憲仁親王8歳。
 幼帝は珍しくなかったとはいえ、5歳での退位は最年少記録。
 周囲の思惑で、勝手に担ぎ上げられ、今また勝手に引きずり下ろされ
……と、それら全てが、物心つくかつかないかの、わずかの間に起きたことで、自分が天皇であったことも、恐らく後に人から伝え聞いて、ようやく理解できることになるのでしょう。
 それにしても、なぜ、これほどまでに、譲位を急がなければならなかったのか
……
 そこには、後白河上皇の焦りが見て取れます。
 
 二条天皇や摂政基実の急死という幸運
(?)により、政権奪取に成功はしたものの、それも清盛の協力あってのことでした。(言い換えれば、清盛抜きでは後白河院政は立ち行かないということ)
 旧二条天皇派に属する反院政勢力も依然として存在しており、もしも、ここで清盛という大黒柱を失うことになれば、彼らが巻き返しに転じ、場合によっては、憲仁即位を阻止する動きに出るかもしれない。
 その辺りのことは、九条兼実も自著『玉葉』に
「此人夭亡之後、彌以衰弊歟」(清盛が死んだら天下は乱れるだろう)と記すなど、大いに危惧していたようです。
 例を挙げるなら、出家の予定がいつの間にか沙汰止みとなり、かといって、元服したにも関わらず親王宣下は受けられずと、宙ぶらりんの状態に置かれた異母兄
以仁王 を対抗馬に担ぎ出す可能性もありました。
 そうなると、再び政局はどう転ぶかわからず、後白河上皇としては、何が何でも、憲仁親王の即位を実現する必要がありました。
 たとえ、清盛に万一のことがあろうと、家督を継いだ重盛は憲仁の乳夫である以上、当面は敵に回る心配もなく、また、傑物の清盛に比し、年若く貴族的な重盛が相手なら、自らが主導権を握りやすいとの打算もあったかもしれません。
「清盛存命の間に決着をつけておかねば!」->->->->->「今、この時しかない!」
 清盛の病が、思いがけず、後白河上皇を後押しすることになったのでした。
 
 仁安3(1168)年2月19日、憲仁親王(
高倉天皇)践祚。
 史上初の平氏出身の天皇の誕生であり、
平家栄華の第一歩!!でもありました。
 やがて、皇太后藤原呈子(
近衛后)に九条院の院号が下され、替って、高倉天皇の生母である平滋子が皇太后の位に就いたのも、その一端に他なりません。
 加えて、清盛の異母弟平教盛が、平氏出身としては初めて蔵人頭に任じられたのは、平家一門が完全に公家の仲間入りしたことを意味しており、これを機に、一門からの高位高官への登用が顕著になって行きます。
 
 しかし、この新帝即位が思わぬ特効薬となり、やがて、清盛が見事奇跡の復活を遂げたことは、あるいは、後白河上皇の書いた筋書きにはなかったことなのかもしれません。
 
    
  2003.11. 6up
   
 
   
 
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