六波羅 嫁姑戦争 〜1.なさぬ仲の母と子〜
 
   
   元永元(1118)年1月18日、一人の男子がこの世に生を受けました。
 その名は
平清盛
 父は、伊勢平氏の若き棟梁平忠盛で、清盛はその第一子。いずれ父の跡を継いで、武門平氏を束ねてゆく身の上ながら、しかし、彼の出生には、ある疑惑の影が見え隠れしていました。
 
 清盛の生みの母は、治天の君
白河法皇 に仕えた女房で、その後、忠盛に下げ渡された、いわゆる“拝領妻”でした。
 古来より、貴人から女性を下賜されることは、この上もない名誉とされ、主従関係の絆の強さの表れでもありましたが、場合によっては、相手の女性が、既に身ごもっていることもあり、そのため、清盛についても、
「実は白河法皇の落胤」との噂が、実しやかに語られていました。
 この清盛の実母は、保安元(1120)年7月12日、清盛3歳の時に急逝しています。
 
 さて、早々とバツイチとなった忠盛ですが、この方、
「眇め」と評されるパッとしない風采の割りに、意外と女性にモテモテだったらしく、方々の女房と交わした歌(ずばりラブレターですね!)が、数多く残されています。
 武門の出という「雅」とは程遠い出自ながら、なぜか、歌詠みの才に長けていた
(?)そのギャップが、世の女性達のハートを鷲づかみにしたのか、ともかくも「男は見た目じゃない」を地で行くモテっぷり。主な子供達の母親の顔ぶれを見るだけでも、中々バラエティーに富んでいます。
 
忠盛系図

 
長男 清盛 1118年生     白河院女房?
二男 家盛 1123年生?( -5) 藤原宗子(藤原宗兼女)
三男 経盛 1125年生  ( -7) 源信雅女
四男 教盛 1128年生  (-10) 藤原家隆女(待賢門院女房)
五男 頼盛 1131年生  (-13) 藤原宗子(家盛同)
六男 忠度 1144年生  (-26) 鳥羽院女房?

 
 他にも、数ある歌集に忠盛との関係をにおわす女性の歌が残されており、一夜限りの恋のアバンチュールも含めると、相手は相当数に上り、女性関係には、かなりルーズな面もあったようです。
 といっても、王朝文化の名残りと言いますか、恋愛に大らかで、同時に何人かの異性と関係を持つことにも、まだまだ寛容だった時代のことですから、これも別段、珍しいことではなく、また、相手が多ければ、それだけ、
パッと燃え上がって、パッと消える「瞬間湯沸し器」並の恋愛に終始しがちな面もあり、信雅女や家隆女などは、いつとはなしに関係が途切れたようで、当時はまだ、子供は母方で育てられることもままあったものの、経盛も教盛も父忠盛に引き取られている所を見ると、始めからそうと割り切った大人の関係だったのでしょう。
 
 しかし、この中に、一人だけ、特別な女性がいます。
 家盛・頼盛の二児を儲け、なおかつ、清盛を始めとした
“なさぬ仲”の子供達をも、まとめて面倒見た平忠盛の正妻―― それが 藤原宗子 です。
 
 宗子は、修理権大夫
藤原宗兼 の娘で、中関白藤原道隆の子隆家の流れをくむ由緒ある家系ながら、しかし、そこは傍流の悲しさか、時代が下がるにつれ、中央から追いやられ、没落の一途をたどっていました。
 ところが、摂関政治に代わる新たな政治形態
「院政」の登場によって、父の宗兼は、白河法皇に取り入ることに成功し、近臣として仕えると共に、白河院の養女である待賢門院の伺候者にも、その名を連ねていました。
 同じ頃、やはり白河院の近臣として活躍し、待賢門院の別当も務めていた忠盛は、いわば、宗兼の同僚でしたから、二人の結婚に至る道程も、まずは自然な成り行きだったのでしょう。
 家盛・頼盛の二人の男子を生み、忠盛の正妻の座を揺るぎないものにした宗子は、その後、崇徳院の皇子
重仁親王乳母 という大役に抜擢されることになります。
 
 前述の通り、宗子の父宗兼は白河院近臣であり、待賢門院の伺候者でしたが、これは、宗兼の姉妹二人が、
崇徳院(顕仁親王:母待賢門院)の乳母であったことによる所が大きく、宗子の兄弟の宗長も、待賢門院判官代を勤めていました。
 当時、乳母という役目は、同族の女性に引き継がれる傾向が強かったようで、これに習い、姪の宗子に白羽の矢が立ったという見方も勿論できますが、宗子の場合に限っては、単純に、叔母達の縁故によるものとは言い切れない、ある事情が絡んでいるようです。
 
 時代は鳥羽院政期に移っており、故白河院・待賢門院との奇妙な関係、その因果による崇徳院との不和、これに拍車をかける美福門院への偏寵と、鳥羽院の周辺には様々な思惑が入り乱れ、情勢は混沌としていました。
 しかも、崇徳院を退位に追い遣ってまで即位させた
近衛天皇 は生来病弱で、世嗣誕生も期待薄と、将来の皇嗣問題に対する危惧が、日増しに膨らむ中、美福門院は、万一の場合の手駒の一つにするつもりだったのか、よりによって、因縁の相手《崇徳院》の第一皇子重仁親王を猶子として引き取ったのでした。
 そして、この点に注目した時、
美福門院と、鳥羽院の近臣筆頭格の 藤原家成 が従兄妹にあたり、また、その家成の母が宗子の父の姉妹(こちらも従兄妹)という、もう一つの親族関係が浮かび上がって来るのです。
 
宗子・家成・美福門院系図

 
 実父と養母
―― 当時の力関係を考慮するなら、宗子が乳母に推挙されたのは、“待賢門院&崇徳院側”からというよりも、むしろ、“家成&美福門院側”からの要請によるものと考える方が自然なように思われます。
 かつてのだまし打ちに近い譲位劇に、その遺恨を尚も引きずる崇徳院の反発を弱めるためにも、
「待賢門院派に属する者」で、なおかつ「美福門院にとっても扱いやすい人材」という、難解な選考基準にあって、鳥羽院の近臣として、その信頼も厚い平忠盛を夫とする宗子ほど、これに適した人間はいなかったかもしれません。
 そして、次代の有力な天皇候補である重仁親王の乳母となったことが、平家一門における宗子の立場を、より一層高めると共に、一方で、新たな確執の種を生むことにもなるのでした。
 
 この頃、はや壮年期に差し掛かりつつあった忠盛の後継者としては、既に、長男清盛が、白河院の御落胤説を裏付けるかのような異例のスピード昇進により、その地位を手中に収めつつありましたが、久安3(1147)年6月15日に起きた
「祇園社頭闘乱事件」(参照:往古人物記「平家盛」)により、足踏みを余儀なくされている間に、二男の家盛が従四位下右馬頭に昇り、一気に清盛に迫る勢いを見せていました。
 この家盛の実母こそ宗子であり、親子関係に疑惑のある清盛とは違い、忠盛にとっても、正真正銘の実子でした。
 かつて絶大なる権威を振るった白河院も既に故人となり、鳥羽院治世下では、凋落の著しい待賢門院や崇徳院の例を見れば、清盛の
“白河院の御落胤”との風評も、それほど大きな意味合いを持つものではなくなりつつあり、“正妻腹の長子が跡を取る”という当時の常識に則れば、五歳の年齢差があるとはいえ、家盛が後継者となることに何ら問題はありませんでした。
 
 ところが、これも運命のいたずらか
……、久安5(1149)年3月、鳥羽法皇の熊野参詣に随行していた家盛は、その帰洛の途に、急死を遂げます。
 出立前から体調を崩していながら、あえて病を押して随行に加わったものの、再び病状を悪化させたための
「病死」と伝えられていますが、考えようによっては、自らの地位を脅かす存在となりつつある異母弟を疎んだ“清盛自身”、あるいは、その周辺の人物が暗殺を仕掛けた可能性も否定できません。
 
 もしも、家盛が壮健のままなら、恐らく免れえなかったであろう平家内紛の一度目の危機は、彼の死によって未然に防がれると共に、有力なライバルがいなくなった清盛は、一門の総領としての立場を、確固たるものにします。
 しかし、それは同時に、継母宗子との、長い葛藤の日々の始まりでもあったのでした。
 
    
  2004. 7.30 up
   
 
   
 
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