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「殿は故刑部卿の殿の嫡子にて渡らせ給しかど、14・5歳までは助爵をだにし給ず。冠をだにも給らせ給はで、継母の池の尼公のあはれみて、藤中納言家成卿の許へ時々申より給いし時…」
『延慶本平家物語』巻2「西光法師を搦め取る事」にある一説。
(『覚一本』巻2「西光被斬」にも同様の件がありますが、“継母の池の尼公”は登場せず、細部の言い回しも微妙に違います)
元は信西の家人で、平治の乱後に、藤原家成の猶子となった 西光 が、「鹿谷事件」 で捕縛された際に、清盛に向かって言った台詞の一部ですが、明らかに史実と異なる部分 (実際は12歳で叙爵) もあるものの、“池の尼公(=池禅尼)” こと忠盛の妻 宗子 が、彼女の従兄妹にあたる藤原家成の館へ、清盛を足繁く通わせていたのは、どうも事実のように思われます。
鳥羽院の寵臣である家成に接近を図ることは、政治的にも大きな意味を持ち、頻繁に出入りすることで、家成の心証を良くしておきたいのは勿論、あわよくば“家成の娘を嫁に迎えたい”との思惑もあったものと推測できますが、当時の家成は、新興勢力にありがちな蔑視(藤原頼長が『諸大夫の家』と酷評したのは有名)をはねのけるべく、格上の上流貴族と姻戚関係を築くことに固執しており、いかに、昨今、伸張著しい武門平氏とはいえ、格下相手の縁組に、首を縦に振るはずもありませんでした。
かくして、家成家の婿になり損ねた清盛が、成人して最初に迎えた妻とされているのは、高階基章の娘。
清盛が父忠盛の譲りで中務大輔に就任した保延2年(1136)に、基章も右近衛将監に任じられており、その職掌柄、宮廷行事の際に、二人が共に従事する機会もあった模様で、恐らく、職務を通じて知己となり、やがて、結婚 という流れになったのでしょう。
と、ここで注目すべきは、この基章の娘が、清盛の妾妻ではなく、「正妻」であったらしいということ。
それは、二人の間に生まれた長男重盛が、生涯、清盛の後継者と認知されていたことにより、どうやら、動かしようのない事実のようです。
学者の家系の高階氏は、重職に就くことはできなかったものの、院の近臣、あるいは摂関家家司として、院政内部や摂関家の家政を握る、いわば、政界における“影の要”ともいえる存在でした。
高階基章も身分は低くとも、悪左府藤原頼長の家司を勤めており、武門出身の清盛にとって、自らの不足を補う意味でも、手を握っておいて損のない相手でしたし、家成の娘との婚姻が実現しなかったことを見てもわかるように、この頃の平家は、興隆の一端は伺えるものの、世間的な地位は まだまだ低く、これ以上の相手、例えば、大臣家や納言家の姫など、とても、望める立場ではなかったということでしょう。
しかし、この基章の娘は、保延5年(1139)に 重盛、翌年に 基盛 と、相次いで二人の男児を生むと、程なく他界したようで、清盛は、父忠盛と同様、結婚からわずか数年足らずのうちに、最初の妻を亡くしたことになります。
さて、武門の棟梁に正妻がいないのは、何かと体裁が悪いということで、やがて、再婚話が持ち上がるのも自然の成り行き。
そこで、清盛が次に目をつけたのは、高棟王流桓武平氏の 平時信 の娘 時子でした。
同じ桓武平氏ながら「伊勢平氏」とも呼ばれる清盛の高望王流は、地下に下った武門平氏であるのに対し、高棟王流は弁官などの実務官僚に携わる 文官平氏 で、当時の貴族社会でのランク付けとしては、京に留まり続けた高棟王流の方が、やや上になります。
が、初婚時に比べると、清盛の地位も上昇傾向にあり、継母の宗子にすれば、もう少し、格上の相手をとの思いもあったかもしれません。(将来、天皇家の外戚という幸運を運んでこようとは、夢にも思っていなかったでしょうからね)
時信は、鳥羽院の判官代に抜擢される傍ら、累代の父祖にならい摂関家の家司を勤め、その内部事情にも通じており……と、これもまた、先妻の岳父高階基章と同類の人間。
戦働きが専門分野の清盛としては、権謀術数の渦巻く貴族社会を生き抜くには、この種の人材を、どうしても抱え込んでおく必要があるとの考えがあったのでしょう。
しかも、 基章 が左大臣 頼長 の家司であったのに対し、時信 とその弟の 信範 は、関白 忠通 の側に仕えていましたから、摂関家の内訌が表面化しつつある情勢を鑑み、体よく乗り換えた との見方もできます。
この時子との結婚の時期は、二人の間に生まれた三男宗盛が、久安3(1147)年の生まれですから、その2〜3年以内とするのが妥当で、仮に、久安元(1145)年として、当時のそれぞれの年齢は、清盛28歳、時子20歳。
長男重盛は、この時9歳になりますが、その後の時子と重盛の関係に、“遠慮”というよりは、どこか“冷淡”な印象も伺えることから、重盛・基盛らの養育に当たったのは、継母となった時子よりも、祖母の 宗子 と見た方がよさそうです。
清盛が忠盛の後継者である以上、重盛もまた、いずれその跡を継ぐべき立場ということで、あるいは、実母が亡くなった際に、平家の嫡孫として、既に忠盛夫妻が手元に引き取っていた可能性もあり、その場合、再婚したとはいえ、後妻の時子に、「大事な跡取りを委ねることなどとてもできない…」と考えたとしても不思議ではありません。
宗子自身、なさぬ仲の嫡子清盛との関係に悩み、また、実子家盛に家督を継がせられないことに苦悶した経験があるだけに、なおさら、その思いは強かったかもしれません。
自分には、そうした衝動を抑えられる理性があったが、時子ならば、「秩序を乱してでも、今後、生まれてくるであろう実子を盛り立てようとするのではないか?」との疑念。
そこには、自分が育てた重盛が平家の棟梁となれば、「我が子家盛や頼盛を疎略に扱うまい」との打算が働いたことも否定できず、現に、早世した二男家盛は別として、頼盛の方は宗子の期待どおり、清盛の兄弟の中では最も早い昇進を遂げ、一門における地位も重盛に次ぐものとなります。
しかし、重盛から嫁の時子を遠ざけたことが、図らずも、自らの危惧を現実のものにしようとは……。
ましてや、平家一門の悲劇の序章となろうとは、この時の宗子は、想像だにしていませんでした。
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