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平安末期の動乱の時代を語る時、決して忘れてはならない人物の一人に挙げられる女性――藤原得子(なりこ)。後に美福門院とも呼ばれるこの女性は、永久5年(1117)、伊予守藤原長実と左大臣源俊房の娘方子(まさこ)の娘として生まれました。
父の長実は六条修理大夫藤原顕季の長男で、顕季の母で長実には祖母にあたる藤原親子(ちかこ)が白河上皇の“唯一人の乳母”であったことからその恩恵を蒙り、白河院政期には院の判官代や別当を務めるなど、父顕季と共に院の近臣に名を連ねました。
またその一方では、因幡守を皮切りに尾張・伊予・播磨などの熟国の守を歴任しながら、元永元年(1118)には内蔵頭に任じられ、以後5年にわたり兼任しています。
ところでこの内蔵頭という官職。
財政逼迫で内蔵寮の納物が乏しかった当時、富裕の受領を頭に任じてその私財で穴埋めをさせる方策(いわゆる官位を餌にした“ニンジン作戦”)が採られており、これは裏を返せば補任者の財力を測る一つのバロメーターでもありました。つまり長実もまた院政期の受領層らしく、実入りの良い国守を務める間に相応の私財を蓄えていたのでしょう。
保安3年(1122)には父顕季の譲りにより内蔵頭から修理大夫に遷任され、従三位 に昇進、そして、大治4(1129)には55歳にして念願の参議に任じられています。が、これにはちょっとした“からくり”が……。
とある宮廷行事(賀茂祭=葵祭)に当たり、参議5人のうち3人が服喪中、1人が病のため出仕できないという事態になり、さらに参議に次ぐ蔵人頭の2人も服喪中で昇任させることができず……と、偶然にしては随分と都合よく(?)重なった“不都合”。
いくら何でも参議が1人では儀式の体裁が整わないため、「こうなりゃ、誰でもいい!」というわけでもありませんが、散三位(位階は三位でも太政官の職についていない者)から繰り上げ昇進させることになり、思いがけず長実にお鉢が回ってきたのでした。(中右記:大治4/4/5)
と、ここまでなら「運のいいヤツ!」で済まされたのですが、翌大治5年(1130)に権中納言に昇進した時には「何でアイツが!?」と非難囂々。
というのもこの長実という人、参議に就任して以後 全く朝廷の評定には出席せず、はっきり言って仕事らしい仕事は何もしていませんでした。そうでなくても、参議になってわずか1年足らずでの中納言昇進は異例中の異例なのに、「非才智、非英華、非年労、非戚里」(中右記:大治5/10/5)の“ナイナイ尽くし”では「世間頗有傾気歟」と誰もが訝るのも当然のことでしょう。
唯一認められる功といえば、白河院が崩御の折、その遺言により遺骨を菩提寺である香隆寺から鳥羽殿に移すことになった際に、長実自ら骨壷を首にかけて運んだことぐらいで、死んでなお「未だ曾て無才の人、納言に昇ることあらず」(中右記:長承2/8/19)などと散々な書かれようをされるほど、世人一般には「長実」=「無能の人」で通っていたようです。
しかし、世の中というものは、そうそう運だけでいつも良い方向へ回り続けるはずもありません。案の定、時代が鳥羽院政に移り変わるや、とんとん拍子の出世もこの中納言昇進を最後に一気に失速してしまいます。
その一方では、弟の家保やその息子 家成 は鳥羽院への奉仕に勤しみ、第一の側近として院の厚い信任を勝ち取っている所を見ると、やはりこの長実には政界の荒波を自由に泳ぎ回るほどの才覚はなく、ただ、流れのままに流され、不遇の時もそれを甘んじて受け入れるしか能がなかったのでしょう。
もっとも、世間知らずのお坊ちゃん育ちでしかも長男とくれば、父親の築き上げたものをそっくり引き継げばよいと暢気に構えている部分もあったでしょうし、片や兄とは違い、自力で新たに家を起こさなければならない次男の家保が鳥羽院に取り入ることに苦心し、そのための奉仕を惜しまなかったのも当然といえば当然のこと。
こうした兄弟の事情は、存外、今も昔もそう変わりないのかもしれません。
とまあ、こういう冴えない長実でしたが、彼の唯一の趣味(?)はどうやら娘の得子を溺愛することだったようで、年頃になっても「そんじょそこらのボンクラにはやれん!」と徹底的な親バカぶりを発揮。変な虫などつけさせてなるものかとそれは大変な気の入れようだったようです。
掌中の玉とも大切に慈しんできた最愛の娘を思う親心……それもまあ、わからなくはありませんが、選り好みも大概にしておかないと後で困ったことに……というのもよくある話なんですけどね。
やがて瘧病にかかって病の床に臥すようになると、途端に弱気になった長実は得子のこれからの先行きを案じ、婿を決めておかなかったことを後悔し始めます。(だから言わんこっちゃない…)
その頃、見舞いに訪れた源師時(妻の兄弟)を前にして、長実は自らの心情を激白しています。
「参議左中将藤原公教を婿にと考えていたものの、自分が病床にあっては何の方策も立てられない」と嘆いたり、「右大臣の源有仁も得子に関心を持っているらしいので、右大臣の真意を確かめて欲しい」と頼んでみたり(長秋記:長承2/7/13)。
そして、いよいよもうダメかという段になっても「後世を祈ることに専念したいが、どうにも得子のことが心配で俗世への執着を絶つことができない。これではとても極楽へは行けないだろう」(長秋記:長承2/8/13)と語ってみたりと、口をついて出るのはもう得子のことばかり。(この長実さん、他にも子供はいるんですよ。もうちょっと他の子のことも考えてもいいだろうに…)
結局、長承2年(1133)7月19日に長実は59歳で逝去し、先に挙げた右大臣源有仁との婚儀も成立することなく、得子は未婚のまま唯一の庇護者であった父親を失ったのでした。
しかし、この父親の死が逆に得子の運を開くことになるのですから、人生わからないものです。
長実の死により本邸である二条万里小路第は娘得子に伝領されたのですが(長秋記:長承3/6/7)、この邸宅は長実が生前、鳥羽上皇に御所として提供していたものでした。
その縁からも、鳥羽上皇が当時17歳の得子について様々な噂を耳にする機会はいくらでもあったでしょうし、父を失ったばかりのうら若い娘に同情も含めて、少なからぬ興味を示したであろうことも容易に想像のつくところです。
得子の叔父にあたる前述の源師時が記したとされる『長秋記』によれば、越後尼公こと姉妹の方子(得子の母)が語った言として、長実の死の翌年の長承3年(1134)には得子は鳥羽上皇の寵愛を受けるようになったとあります(長承3/8/14)。
ここで一つ断っておきますが、この時の鳥羽上皇はまだまだ男盛りの33歳。無論、出家もしておらず、孫のような年齢差の璋子に手を出した白河院の乱れっぷりとはかなり事情は異なります。
しかし、このことにより今上崇徳天皇の怒りを買い、得子の兄弟をはじめ一族縁者は次々に昇殿や国守の任を停止されたり、財産を没収されるなどの厳罰を蒙ることにもなりました。
恐らくは母后から父上皇の寵を奪った“得子憎し!”の激情が高じての措置であり、少しマザコン(?)の気のある崇徳天皇にすれば、母待賢門院璋子から怨みつらみを訴えられれば、とても見過ごしにはできなかったのでしょう。
当の鳥羽上皇としても、事が自らの女性問題によるものであったためばつが悪かったこともあるのでしょうが、そもそも、既に成人の域に達している天皇(16歳)の下した処断に真っ向から異を唱える権限もなく、不満のうちにもこれを容認するより他ありませんでした。
が、この一件が得子に『崇徳許さじ!』の念を植え付け、なおかつ、いわくつきの“鳥羽×崇徳”の親子関係にも、亀裂を生じさせる第一歩であったとなれば……、あるいは後の悲劇も崇徳天皇が自ら蒔いた種とも言えなくもありません。
それにしても、思いがけず手痛いしっぺ返しを受けることになった鳥羽上皇ですが、これで懲りたかと思えば……、とんでもない、前にも増して得子を寵愛し、片時も傍から離そうとしなかったようです。
祖父の白河院から押し付けられた待賢門院璋子、摂関家の顔を立てるためにやむなく入内を許した皇后泰子と、いずれも自分の意思とは関わりなく迎えざるをえなかった后妃達と違い、得子は何と言っても上皇が自ら求めて寵愛した女性でしたから、それこそ、障害が大きければ大きいほどその恋の炎もいっそう燃え上がろうってものです。
保延元年(1135)に得子は懐妊するに及び、その年の12月に初めての皇女を出産。この時生まれた叡子(としこ)内親王は誕生直後に皇后泰子の養女とされましたが、これは皇后の父藤原忠実の画策によるものといわれています。
皇后泰子は鳥羽上皇の許に入内した時点で39歳。おまけに男嫌いだったとの逸話も残されており、どう考えても皇子誕生など無理な相談で、ならばここは
上皇最愛の寵妃と仲良くしておくにこしたことはないとの打算から養子縁組を思い立ったのでしょう。
そして、この提携により両者の親密さが増すにつれ、“得子&泰子(摂関家)”vs“待賢門院”の対立の構図が次第に鮮明になっていくことになります。
叡子内親王誕生により得子は従三位に叙され、続く保延3年(1137)には二女ワ子(あきこ)内親王を出産。さらに保延5年(1139)には3度目の懐妊が明らかとなり、それを知った上皇は「今度こそ、男皇子を!」と多大な期待を寄せ、それはもう政治そっちのけで祈願・祈祷に明け暮れたといいます。
その甲斐あってか、同年5月18日に待望の男子が誕生。狂喜乱舞の上皇はこの皇子をどうにかして皇位に就けたいと考えますが、実母の得子は皇后どころか女御ですらなく、その出自の低さが大きなネックでした。
そこで、崇徳天皇に未だ実子がないことをこれ幸いに、中宮聖子(父は関白藤原忠通)の養子にするという策を取ります。
この時 崇徳天皇は21歳。9歳で入内した中宮聖子も既に18歳になっているにも関わらず、今もって懐妊の兆しがまるでなく、そのことで焦りを感じ始めていた忠通が将来を見据えて自ら進言したことか、そこに目をつけた上皇が切り出したことか、そこの所は定かではありませんが、ともかくも両者の利害が一致しての提携であることは確かなことでした。
やがて親王宣下を受け、体仁(なりひと)と名づけられた皇子は、全てのお膳立てが整った保延5年(1139)8月17日、生後わずか3ヶ月での立太子が敢行され、これに伴い得子は女御の宣旨を蒙ることになりました。
が、崇徳天皇の本音はといえば、あの“憎き!得子”の生んだ子を養子にするなど、とても承服しかねることだったでしょうが、自身に後継者となる男子がいない以上、鳥羽上皇のごり押しに対しても強い態度に出ることはできず、不本意ながらもこれを受け入れる他ありませんでした。しかし、体仁親王を養子にして間もなく、男皇子が生まれた(母は中宮聖子ではない)というのも実に皮肉なめぐり合わせ。つくづく崇徳天皇の運のなさを感じます。
そして、世に有名な騙し討ちともいえる天皇交代劇が行われたのは、それから2年後の永治元年(1141)12月のこと。なお、鳥羽上皇はこれ以前に出家を遂げ法皇となっていました。
養子縁組という既成事実が盲点となり、義理とはいえ“子”に譲位したつもりでいたものが、近衛天皇即位の宣命にはなぜか“皇太弟”と明記されていたという巧妙な罠――これは関白忠通の立てた謀略とされていますが、得子の関与も全く否定しきれるものではありません。
とにもかくにも、国母となった得子はついに皇后の位に昇ることとなりますが、得意の絶頂を迎えたその影では彼女にまつわるきな臭い事件が二つ連続して起きていました。
一つは、法金剛院の法橋信朝が呪詛の廉で捕えられ、検非違使に拘束された(台記:康治1/1/19)というもので、今一つは、同じく呪詛の廉で源盛行と津守嶋子という夫婦が土佐国に流された(台記・本朝世紀・百錬抄:康治1/1/19)というものです。
法橋信朝は待賢門院の乳母子、源盛行は待賢門院判官代、妻の嶋子も待賢門院に仕える女房といずれも 待賢門院 ゆかりの人物で、罪状も同じく 呪詛。
とりわけ、源盛行と嶋子の一件については、主の待賢門院の密詔を奉じて得子を呪詛したものと認めており、近衛天皇即位の直後という時期を思えば、信朝の方も同様であったと見て差し支えないでしょう。
白河法皇の死後、凋落の一途をたどる女院が、今また我が子崇徳が退位を強いられるという事態に接し、これを憂える余りその恨みの矛先を得子に向けたという想像も一応成り立つものの、あるいは、待賢門院一派を一掃するために忠通&得子側がしかけた謀略ともとれなくもありません。
この一月後に待賢門院は出家を遂げていますが、これが呪詛事件に関連してのものであることは「天下諸人、知與不知、無不悲歎者也」(本朝世紀:康治1/2/26)との表現を見る限りほぼ間違いないようです。
既に出家していた高陽院泰子に続き、待賢門院も落飾したことで、ここに得子は鳥羽院の唯一の后となり、今上の生母としての重みも一段と増すにつれて、彼女の許には今や院の第一の側近として重きをなす従兄弟の家成や、同じく従兄弟の伊通らが集うようになり、やがてそれは一つの政治勢力を形作るに至り、公家社会全体に大きな影響力を持つようになります。
さらに久安5年(1149)に「美福門院」の院号を賜ると、その院司には別当の伊通以下、軒並み鳥羽法皇の近臣が任じられ、特に武人の平忠盛が年預に取り立てられているのは、女院と平家との結びつきの最初とも言うべき出来事でした。
しかし、これまで順風満帆に見えた美福門院得子のサクセスストーリーの行く手にも、実は大きな落とし穴が待ち受けていました。
生来病弱だった近衛天皇は帝に即位して後もしばしば病に臥せりがちで、その意味では彼女の栄華も近衛天皇の生死に左右される脆い砂上の楼閣でしかなかったのです。
それでもどうにか元服を迎えるまでになると、今度は当然の如く“お妃選び”という、新たな問題が持ち上がることになります。
第一候補に時の左大臣 藤原頼長 の養女 多子(まさるこ) が浮上する中、得子は従兄弟の藤原伊通の娘 呈子(しめこ) を養女とし、これを皇后に据えようと画策します。
藤原頼長は自らの日記に、得子をさして「諸大夫の女」と記すなど、かねてより家格の低い出自である得子を蔑視しており、この二人はいわゆる犬猿の仲。たとえ養女であれ、その頼長の娘を可愛い我が子の妃に迎えるなど、得子には耐え難い屈辱と映ったのかもしれません。
それに引きかえ、兄の忠通の方は近衛天皇が中宮聖子の養子になった縁もあって、なおも良好な関係を維持しており、加えて呈子が忠通の妻の姪にあたることもあって、その入内を強力にバックアップするなど得子といっそう提携を深め、その結果、摂関家の内訌に拍車をかけることにもなりました。
久安6年(1150)近衛天皇の元服の儀がすむと、まず頼長の養女多子が入内し、それから3ヶ月後には忠通の養女となった呈子が入内となるわけですが、時に近衛天皇12歳。11歳の多子はともかく、20歳になる呈子はやや不釣合いともいえますが、そこには「一日も早い跡継ぎの皇子の誕生を…」との、美福門院の切実な願いも見て取れます。
そして、入内から2年後の仁平2年(1152)に待ち焦がれた呈子懐妊の吉報がもたらされると、得子はその着帯の儀も自ら取り仕切り、祈祷や造仏にも余念なく、ひたすら初孫の誕生を心待ちにしました。
ところが、産み月の3月を過ぎても一向に産気づく様子もなく、1ヶ月、2ヶ月……。待てど暮らせど生まれる気配はなく、やがてその年の暮れも迎えようかという段に及ぶに至り、もはや今回の懐妊は間違いであったと認めざるをえませんでした。恐らく、皇子誕生を待ち望む周囲の期待があまりに大きすぎたための想像妊娠だったのでしょう。
しかし、皇子誕生の望みが潰えたことに大いに落胆しながらも、得子にはいつまでもそれに捉われている暇などありませんでした。
近衛天皇の健康不安は年を重ねるごとに増し、とりわけ眼疾を患ってからはほとんど病床を離れることができない状態にあり、皇子のいない天皇に万一のことがあった場合の皇嗣問題はもはや抜き差しならない緊急事項と化していたのです。
順当にいけば、第一候補は先帝である崇徳上皇の皇子重仁親王。
この重仁親王は正妃である聖子との子ではなく、実母が兵衛佐という一介の女房(つまり身分があまり高くない)だったためか、幼少の頃から美福門院の養子となっていました。
それも将来の即位の可能性を見越してのことだったのでしょうが、現実問題として重仁親王の即位となれば、当然その父である崇徳上皇が院政を行うことが予想され、得子としてはかつて苦渋を飲まされた経験からいっても、これはどうあっても阻止したいことでした。
そこでひねり出された仰天の隠し玉――それが雅仁親王の “王子” の擁立でした。
雅仁親王は周知の通り、崇徳上皇と同じく待賢門院璋子を母とする鳥羽法皇の第四皇子で、近衛天皇には異母兄にあたります。
本来であれば、この雅仁親王もまた重要な皇位継承者の一人になりうるはずでしたが、皇位とは無縁の生活を長くしてきたこともあって、そのあまりの放蕩ぶりに父の法皇にも見限られ、端から候補者からは除外される有様でした。
にもかかわらず、その雅仁親王の“王子”に白羽の矢が立てられたのは、誕生直後に生母が病死したことからこの王子は鳥羽法皇に引き取られ、美福門院がその養育にあたっていたためでしょう。
もっとも、始めから皇位継承の候補にと予定されていたわけではなく、現に9歳になった仁平元年(1151)10月には仁和寺に入れられ、信法法親王(父雅仁の同母弟本仁、後の覚性法親王)の弟子となっており、出家が既定の路線であったことはまず間違いのないことです。
ところがこの入寺によって、図らず王子の秀才ぶりが人の口に上るようになり、それを耳にした美福門院が灯台下暗し、「この王子こそ皇嗣にふさわしいのでは?」と考えたとしても不思議ではありません。
やがて、関白忠通が雅仁親王の“王子”の践祚を鳥羽法皇に奏上。表向きは病床の近衛天皇の英慮ということでしたが、実際は美福門院の意向に沿ったものだったのでしょう。
忠通にしても、かつてだまし討ちの譲位劇を演出した張本人でしたから、崇徳院政が実現しようものなら真っ先に失脚させられるのがオチで、美福門院の申し出は渡りに船の妙案でした。
しかし、奏上を受けた鳥羽法皇は、父が天皇でない“皇孫”の擁立という、前代未聞の突飛な案を安易に受け入れることをよしとせず、この時は時期尚早とこれを一蹴しています。
鳥羽院の思いがけない「待った!」が入り、一時棚上げを余儀なくされた後継者問題は、久寿2年(1155)7月13日に近衛天皇が崩御するに及び、いよいよ決着の時を迎えることになります。
先に挙がった 重仁親王 と 雅仁親王の王子 の二人に加え、近衛天皇の同母姉である ワ子内親王 を女帝に立てるという第3の案まで飛び出したものの、あにはからんや、ここで次期天皇に選ばれたのはそのいずれでもなく、伏兵中の伏兵、雅仁親王その人だったのです。
勿論、これは本命が雅仁親王の“王子”であり、あくまでも 中継ぎ の意味での践祚に他なりません。程なく仁和寺より呼び戻された王子が親王宣下を受けて 守仁(もりひと) と命名されると、すぐさま皇太子に立てられ、正妃として美福門院の三女 子内親王を迎えているのが何よりの証拠でしょう。
かくして、皇嗣問題もひとまず解決を見ると、鳥羽法皇は鳥羽南殿・北殿などの主要な所領を美福門院に譲与し、得子の地位はもはや揺るぎないものとなりました。が、そんな最中に信じられないような風聞が耳に入ります。
「藤原忠実・頼長父子が先帝を呪詛していた!」
故近衛天皇の霊が巫女の口を借りて語った話として、「眼病にかかり命を落としたのは、何者かが愛宕護山の天公像の目に釘を打ち込んだため」との噂が巷に流布し、それを耳にした鳥羽法皇がすぐさまそれを調べさせてみると、「全くその通りでございました」との報告がもたらされました。
さらに藤原忠通がこの呪詛は「父忠実と弟頼長の仕業」と奏上したことから、得子が逆上、その彼女の怒りに感化されて、法皇もまた次第に彼らを憎むようになったといい、天皇交代時にはその都度改めて下す“内覧の宣旨”が、今回は頼長に与えられることがなかったのもその怒りのためとされています。(まあ、これも忠通の謀略で、忠実&頼長はまんまとはめられたというのが真相でしょうが…)
守仁親王の立太子により、我が子重仁親王の皇位継承の望みを絶たれた 崇徳上皇 。
事実上の失脚を余儀なくされた 頼長 。
共に得子の心一つでその運命を狂わされたといっても過言ではない二人が、やがて“現体制転覆!”の志を胸に、互いに接近を試みるのもまた自然な流れで、その暴発をかろうじて封じ込めていたのは、治天の君=鳥羽院の存在による所が大きかったでしょう。
しかし、翌保元元年(1156)に入ると鳥羽院が病の床に臥すようになり、日増しに高まる世上不穏の声に、自らの死期を悟りその後事を案じた法皇は、源為義や平清盛といった主だった武士達を集め、美福門院への忠誠を誓わせたといいます。
事ここに及び、いよいよ危急を悟った得子は6月12日に法皇の病臥する鳥羽安楽寿院にて落飾。時に得子40歳、法名は「真性空」とつけられました。
そして、7月2日に鳥羽院崩御の時を迎えると同時に、長い動乱の世の火蓋が切って落とされることとなります。
保元の乱の顛末についてはここでは省略しますが(綴折事件帖を参照)、美福門院が実質的な盟主であり、鳥羽院恩顧の近臣の多くを掌握していた朝廷方が勝利を収めたのは当然の結果だったのでしょう。
さて、皇室が相争う未曾有の騒擾を経て、得子に残された最後の仕事は皇太子守仁親王の践祚でした。
あくまで中継ぎとして即位させた後白河天皇には“皇位に執着を持つ前に速やかに譲位してもらわねばならない”。今は味方面をしている関白藤原忠通も、いつまた掌を返したように後白河天皇に擦り寄るかもしれない。
権威の持つ魔力のようなものを知り尽くしていた得子の目には、これは急を要する問題と映ったことでしょう。
保元3年(1158)8月、「仏と仏の評定」によって俄かに譲位は決行されますが、ここでいう“仏”とは、既に出家の身の“美福門院”と“信西入道”をさし、天皇の譲位という大事にも関わらず、関白忠通は何の相談にも預からなかったといいます。
守仁の即位を熱望する得子と、院政による近臣政治を目指す信西と、両者の思惑が合致しての提携により、摂関家の介入を許さない交代劇がここに実現したのでした。
かくして、懸案の二条天皇の即位も成り、ようやく肩の荷を降ろした得子はこの後 鳥羽法皇の菩提を弔うことに専心し、特に政治に口出しするようなことはなかったと言われています。
ただ、偉大なる鳥羽法皇の未亡人であり先々帝の母后、そして、今上帝の養母で且つその正妃の実母という立場を考えれば、彼女の些細な言動、一挙手一投足にも世の人々が敏感になっていたことも否めません。
二条天皇と子内親王との不仲、そして、離別に至るスキャンダルに仏の弟子という身の上も忘れ、母として心中穏やかざるものを抱いたとしても仕方のないことでしょう。
近衛天皇のみならず、長女の叡子内親王も久安4年(1148)に14歳で夭折しており、女帝の話まで出た二女のワ子内親王も未婚のまま若くして落飾と、ことごとくが幸薄いさだめを負い、せめて末娘だけでも幸福な結婚をとの願いから皇太子時代に二条天皇とめあわしたものの、それも望みどおりにはならず……と、得子にとって、その晩年はかつての栄耀の日々からは想像もつかない苦悩と悲嘆に包まれ、世の無常を身をもって体感することになりました。
そして、鳥羽院崩御から遅れること4年――。
永暦元年(1160)11月23日、美福門院得子は44歳の波乱に満ちたその生涯を閉じることとなります。
その遺骸は荼毘に付された後、女院の遺言により“高野山”に納骨されましたが、実はこれは故鳥羽院の遺命に背くものでした。
故鳥羽院は生前に鳥羽東殿に二基の塔を建立し、それぞれに自分と得子を葬るように定めており、鳥羽院の遺骨はその遺言どおりに葬られましたが、得子はなぜかこれを拒んで高野山への納骨を懇望し、そのことを知った天台僧から「弘法大師(空海)を尊び、伝教法師(最澄)を賤しめる行為」との抗議があったにも関わらず、彼女の強い遺志をくんだ弟時通の手によってそれは実現を見ています(山槐記:永暦1/12/6)。
しかし、世に並びない寵愛を受けながら、最後の最後、真の安住の地に鳥羽法皇の傍らではなく、遠く離れた高野山を選んだ得子――。
死を目前にした彼女の胸に去来したものは何であったのか……。残念ながら、その本心を明かすものは、何一つ残されてはいません。
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