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平家盛 |
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平家といえば「○盛」という名前のオンパレードで「誰が誰だかわからない」とはよく聞かれる話ですが、この平家盛については、平家好きの方でも「そんな人いたっけ?」と思われる向きもあるほど、非常に存在感の希薄な人物といえ、悲しいかな、平家略系図などでは概ね省略の憂き目にもあっています。
しかし、平家の興亡の歴史をたどる時、実は彼こそ一門の浮沈を大きく左右する、重要なキーパーソンであったことは意外やあまり知られていません。
父は正四位上刑部卿平忠盛。
忠盛はあの平清盛の父ですから、つまり家盛は清盛の弟になります。
生年は不明ですが、『尊卑分脉』などによれば忠盛の次男と位置づけられています。そこで、他の兄弟達の生年を書き出してみると、
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清盛 元永元(1118)年 |
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← 家盛? |
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経盛 天治 2(1125)年 |
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教盛 大治 3(1128)年 |
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頼盛 天承元(1131)年 |
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次男ということであれば、清盛の元永元(1118)年以降、経盛の天治2(1125)年以前と推測され、『平安時代史事典』では保安2(1123)年生まれ(母藤原宗子の項)との記載もありますので、ここではその説に従って話を進めます。
それにしても、清盛の弟といえば経盛・教盛・頼盛・忠度と、誰しもが『平家物語』に何がしかのエピソードを残しているのに、なぜに家盛という人物はかくも鮮やかに人々の記憶から忘れ去られてしまっているのか……。
ありきたりの答えになってしまいますが、それは彼が若くして世を去っていたからに他なりません。
極官も従四位下右馬頭兼常陸介と公卿に至っていなかったため、人物記には欠かせないお手軽史料『公卿補任』にもその名はなく、また折悪しく公卿日記の記述も乏しい時期に当るため、彼の足跡は『本朝世紀』《藤原通憲(=信西)著》などにわずかに残されているのみです。
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【平家盛 略歴】 |
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天皇 |
年 月 日 |
年齢 |
官 職 等 |
備 考 |
崇徳 |
1134(長承3) 3.11 |
12 |
六位蔵人に補される |
小右記 |
〃 |
1138(保延4) 3. |
16 |
石清水八幡宮臨時祭にて舞人を務める |
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〃 |
? |
? |
従五位下左兵衛佐に任じられる |
※ |
近衛 |
1142(康治1) 7.12 8. 3 |
20 |
行幸不供奉により恐懼(謹慎)となる 恐懼が解かれる |
本朝世紀 〃 |
〃 |
1143(康治2) 1. 6 4.19 |
21 |
従五位上に叙される 賀茂斎王禊で前駈を務める |
本朝世紀 〃 |
〃 |
1146(久安2) 11. 4 |
24 |
宇佐神宮使に任じられる |
本朝世紀 |
〃 |
1147(久安3) 1. 5 11.14 11.25 |
25 |
正五位下左兵衛権佐 常陸介に任じられる 賀茂臨時祭舞人を務める |
本朝世紀 〃 〃 |
〃 |
1148(久安4) 1.17 1.28 |
26 |
射礼の射手を務める 従四位下に叙され、右馬頭に任じられる |
本朝世紀 〃 |
〃 |
1149(久安5) 3.15 |
27 |
熊野参詣よりの帰途に急死 |
本朝世紀 |
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※康治元年7月12日の条に「左兵衛権佐平家盛」とあるので、任官はそれ以前と推測されます。 |
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『尊卑分脉』によれば、家盛の母は、修理権大夫従四位上藤原宗兼の娘藤原宗子。
というよりも、後に「池禅尼」と呼ばれる女性といった方がわかりやすいでしょう。
一般に池禅尼は清盛の継母と称されていますが、彼女の父藤原宗兼は白河法皇の近臣で、さらには院の側近として一大勢力をなす藤原家成(成親の父)とも“いとこ”という関係にあり、「家盛」という名もあるいはこの家成に由来するものかもしれません。
これに対して、清盛の実母は祇園女御とかその妹とか、あれこれ取り沙汰されていますが、いずれにせよその出自が明らかでないところからして、こと身分に関しては宗子の方が格上になり、彼女が忠盛の正妻であったとみてまず間違いないでしょう。
そこで問題になるのが清盛と家盛との関係です。
この時代の家督は母の身分が大きくものをいい、たとえ年長であっても庶子は退けられ、正妻の子を嫡子とするのが通例でした。
おまけに清盛については白河院の御落胤との噂もありましたから、宗子にすれば家盛こそ夫忠盛の血を受け継ぐ真の嫡男との思いが強かったかもしれません。
そんな母の期待を一心に背負う家盛は、成長と共に石清水八幡宮や賀茂社の臨時祭で舞人を務めたり、賀茂祭(葵祭)の斎王の禊の行列で前駈を務めたりと、華々しい宮廷行事にも名前を連ねるようになり、他のエリート貴族の子弟にもひけをとらない我が子の貴公子ぶりには、忠盛もまた少なからぬ期待を寄せていたことでしょう。
といっても、事の真偽はともかく、清盛は白河法皇より下賜された妻の長子であり、また落胤説を裏付けるかのような異例の昇進を続けるなど、世間的にも既に忠盛の後継者として十分に認知されていましたから、清盛=嫡男であるという定義を自ら覆すことまではさすがに忠盛も考えてはいなかったと思われます。
清盛の頭脳と家盛の武勇を両輪として、一門のさらなる繁栄を――それこそが、これまで朝廷の番犬のように悪し様な扱いを受けながらもじっと耐え忍び、ひたすら武家の地位の向上に努めてきた忠盛の悲願だったといえます。
しかし、その一方で、宗子の母性はどこまでその夫の思いを受け入れることができたのか……。
平家の家刀自としての立場と、家盛の実母としての願望――二つの相容れない思いに悩み、あるいは、我が子を思うあまり理性を失い自ら骨肉の争いを招くかもしれない……、そんな危険の種を宗子が人知れず、自らの内に抱えていたとしたら……。
ただ、家盛の早過ぎる死によって、ついにそれは芽吹くことはなかった……などとするのは、少々穿った見方でしょうか。
『本朝世紀』の久安5年(1149)3月15日の記事より
是日。従四位下行右馬頭兼常陸介平朝臣家盛卒。扶病扈従熊野御供。 自去十三日殊以更発。今日於宇治川落合之辺気絶了云々。
要約すると、鳥羽法皇の熊野参詣に病をおして随行していた家盛は、帰京の途上に病が重くなり、宇治川流域の落合(現在の山崎付近)の宿の辺りでついに息を引き取ったということです。
さらにこの後には、急の知らせを受け京より駆けつけた家盛の乳母夫が、悲しみのあまり衝動的にその場で剃髪したという話が挿入されています。
かくして、このわずか数行の記載を最後に家盛は公の記録から忽然と姿を消すことになりますが、そのあまりに突然過ぎた死の影では、ある噂が実しやかに囁かれていました。
これより時を遡ること2年前の久安3(1147)年6月15日。
祇園臨時祭の当日、奉納の田楽をしつらえた平清盛は、その一行の警護のために郎党を随行させていました。
ところが、物々しい武装を見咎めた祇園社の神人との間に闘争が起こり、神聖なる社殿に無数の矢を突き立て、ついには神人側に負傷者まで出すという惨事に発展していまいました。
これを怒った祇園社に、延暦寺や日吉社が同調したことでさらに騒ぎは大きくなり、神輿を担いでの強訴をもって、忠盛・清盛父子の流刑を求めるに至りました。
しかし、鳥羽法皇は清盛に贖銅30斤――つまり銅を納めさせるという罰金刑を課すにとどめ、結局 彼らの要求は受け入れられることはありませんでした。
この裁定をひどく恨みに思った衆徒らが、やがて平家一門を呪詛するに及び、そのために家盛も急死を遂げた――というのが「祇園社の祟り」なる噂の全容になります。
当の平家の人々が果たしてその噂をどこまで信じたか、それはわかりませんが、母親の宗子にしてみれば、家盛は清盛の身代わりで死んだとの疑念も否定しきれず、また、家盛の死によって、清盛の家長としての地位を脅かす人間がいなくなったという事実を踏まえれば、釈然としないものを感じていたことでしょう。
同じく宗子所生の頼盛は、家盛の死後に他の兄を差し置いて家盛の官位を引き継いだものの、清盛との年齢差が13歳ともなると対抗馬として押し立てるにはどうにも心許なく、さらには夫忠盛の死を境に、清盛を頂点とした一門の構成図がより明瞭になるにつれ、いっそう「家盛さえ生きていれば……」という気持ちにもなろうものです。
そこに起きたのが、あの保元の乱でした。
仮にも宗子は崇徳上皇の皇子重仁親王の乳母という立場にあり、乳兄弟となる頼盛などは崇徳上皇方につくのが自然であり、事実、世間でもそう目されていました。
しかし、忠盛の死後、出家して池禅尼と呼ばれるようになった宗子は頼盛を諭し、異母兄清盛と行動を共にさせたといわれています。
一門総出で後白河天皇方についた平家は勝利をおさめ、以後、栄耀栄華への階段を駆け上って行くことになりますが、もし、この時 家盛が存命であったなら……、宗子は全く違った指図をしていたかもしれません。
清盛とは袂を分かち、正嫡である家盛を棟梁と仰ぐ新しい勢力をもって崇徳上皇方に味方する――。
そうなれば平家一門が二分されることは必定で、同母弟の頼盛はもちろん、仮に経盛・教盛までもが家盛側につき、むしろ清盛の方が孤立を余儀なくされるといった展開にでもなろうものなら両軍の兵力は完全に逆転し、崇徳方の勝利へと大きく傾くことになっていたでしょう。
ただし、たとえ崇徳上皇方が勝ったとしても、その先に家盛を頂点とする平家一門の繁栄があったかどうか、そこは甚だ疑問の残るところですが……。
しかし、平家の家のためを思い、あえて譲歩して一門分裂の危機を救ったという自負、そして清盛に対する最後の意地――それが、やがて宗子を頼朝の命乞いへと駆り立てて行くことになります。
平治の乱によって、捕われ人となった13歳の頼朝が「亡き家盛によく似ている……」
そのまま額面通りに受け取っても、まあ通じなくもない話ではありますが、むしろ、この時の宗子には、家盛の名を出せば清盛も否とは言えまいとの確信があったように思われます。
かつての家盛の急死が、祇園社の祟りによるものだという風聞は清盛自身も知るところであり、そのことについて少なからず負い目を感じていたであろうことは、その後の宗子に対する気遣いを見ればおおよその想像もつきます。
そして、それを逆手にとって宗子がささやかな逆襲に出たとすれば……。
「今のそなたがあるのはいったい誰のおかげとお思いか? 我が子家盛が身代わりとなって死んだことをよもやお忘れではあるまい……」
無言の抗議ともとれる継母の謎懸けの意図を読み取った清盛は頼朝助命に動くほかなく、その結果、頼朝は死一等を減じられ、伊豆国配流となったことは周知のとおりです。
頼朝を通して、家盛という存在を今一度 清盛に強く印象づけておきたかった宗子――その思いを清盛も終生忘れずにいたならば、あるいは平家滅亡の悲劇もなかったのかもしれません。
と、ここまで何度も早世したと言い続けてきた家盛ですが、「実は生きていた!」という生存説も存在します。
それも壇の浦での平家滅亡の後、西海は五島列島に位置する宇久島に渡って、その名も宇久家盛と称したのが後の五島家の祖であるとのこと。
現在、その宇久島には家盛の銅像まであるようです。
もっとも、一部では重盛の一子有盛の誤り(「家」と「有」の字の取り違えか)ともいわれ、また、家盛が死んだとされる久安5年(1149)から壇の浦の合戦の元暦2年(1185)の間には35年余に及ぶ歳月の隔たりがあり、その間 全く存在を確認できない家盛が、突如として歴史の表舞台に登場する唐突さからいっても、数ある平家落人伝説の域を抜け出るものではありません。
が、もしも将来の禍根を絶つため、あるいは、何らかの理由で命を狙われる家盛を救うために、偽装された死だったとしたら…。
以上のような推論を許に書かれたと思われる一つの書を最後にご紹介しておきます。
『海渡る風と光―生きていた平家盛』(橋本和子著:文園社発行)
副題にある通り家盛生存説を採り、他にも安徳天皇替玉説や実は○○が家盛の遺児だったというような、意表をつく展開のてんこ盛りです。
『日本系譜総覧』によれば、家盛の子として××の名があり、これが『尊卑分脉』に記される○○(その筋ではかなりの有名人です)の本名(途中で改名しておりその元の名前)と一致するなど妙に真実味もありますが、如何せん両者の年齢差にはかなりの無理があります。(少なくとも1150年以前に生れていないと計算があわない)
他にも、家盛の死〈仮の〉が一年早い久安4年(1148)になっているなど、いくつか実在史料と矛盾する箇所もありますので、あまり真に受けず、あくまでもフィクションとしてそのロマンあふれる世界を楽しんでみてはいかがでしょう。
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2003.9.18 up |
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〈平家盛−往古人物記〉 |
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