九条兼実
 
   
   藤原兼実とも言いますが、京の九条に館があったことから「九条」の家号を用い、その名があります。   
 『平家物語』にも登場する人物ながらその出番は数少なく、巻4の「還御」の段において、安徳帝の即位
〈治承4/4/22〉に際し、通常は大極殿で行われる儀式を内裏炎上により焼失していたため、どこで行うかという問題が議論され、紫宸殿で行うべきと強く主張する所がその存在感を示す唯一の場面でしょうか。   
 しかし、公卿日記『玉葉』の著者であり、平家全盛期の間、常に右大臣の位にあり続けた兼実は源平争乱の実態をリアルタイムで目撃した歴史の生き証人と言えます。   
    
    
 
  九条兼実 略歴
 
天 皇 年 月 日 年齢 位 階 官 職 等 備   考
後白河 1158(保元3)  1.29  10 正五位下  禁色昇殿を許される  元服日
〃    3.13   左権少将  
〃    4. 2   左権中将  
二 条 〃    10.21  従四位下    宇治御幸賞
1159(保元4)  1. 3  11 従四位上    朝覲行幸
〃    1.29   播磨介  
〃    4. 6  正四位下    臨時
1160(永暦1)  2.28  12 従 三 位    左中将 如元
〃    6.20  正 三 位    
〃    8.11   権中納言  
〃    8.14   左権中将 更任  
〃    10.11  従 二 位    行幸院賞
1161(永暦2)  8.19  13  右大将  
〃 (応保1)  9.13   権大納言  
1162(応保2)  1.10  14 正 二 位    行幸院賞
〃    2.19   中宮大夫  
1164(長寛2)閏10.23  16  内大臣  
六 条 1166(仁安1)  8.27  18  左大将  
〃    10.10   皇太子傅  
〃    10.21   左大将を辞任  
〃    11.11   右大臣  
高 倉 1168(仁安3)  2.19  20  皇太子傅を停止  高倉天皇践祚により
1174(承安4)  1. 7  26 従 一 位    大臣労
安 徳        右大臣のまま
後鳥羽 1185(文治1) 12.28  37  内覧の宣旨を蒙る  
1186(文治2)  3.12  38  摂政・氏長者となる  
〃    10.17   右大臣を辞任  
1189(文治5) 12.14   太政大臣  
1190(建久1)  4.19  42  太政大臣を辞任  
1191(建久2) 12.17  43  摂政を改め関白と
 なる(准摂政)
 後鳥羽天皇の成人
 により
1195(建久7) 11.25  48  関白職を停止される  上表なし
土御門 1201(建仁2)  1.28  54  出家  法名 圓證
1206(承元1)  4. 5  59  薨去  
   
   
    
   『公卿補任』によれば生年は大治6(1131)年。摂政関白藤原忠通の三男で、母は藤原仲光の娘加賀局。先に摂政関白の位についた二人の兄基実・基房とは異腹になります。   
 母の加賀局は注釈に家女房とある位ですから、あまり身分の高い出自ではありませんが、忠通の晩年の寵女だったらしく、兼実の他に四人の男子を儲け、『愚管抄』の作者で比叡山延暦寺の天台座主となった慈円はその末っ子になります。   
 中納言家の娘を母に持つ基実・基房(共に源信国の娘とあるものの、異腹との注書きがあり、母同士が姉妹)に比べると庶流の感は否めませんが、父忠通の愛息としてわずか12歳で公卿の列に連なるなど順調な出世ぶりです。また異母姉で崇徳天皇妃であった皇嘉門院聖子の猶子となっており(『玉葉』で女院とあるのは概ね皇嘉門院を指す)、彼女の里第である九条邸を譲り受け、それが後に九条家と称する家名の由来となっています。   
    
 摂関家の三男坊としてまずまずの政界デビューを果たした兼実でしたが、長兄基実の夭折
〈永万2(1166)7/26〉が第一の転機をもたらします。基実の嫡男基通は7歳と幼かったため次兄の基房が摂政を引き継ぎ、それに伴って兼実は右大臣に任じられます〈同年改元により仁安元/11/11〉。この時兼実は18歳でした。   
 もし、基実がもっと長生きしていれば、兼実のこの後の人生は全く違ったものになっていたかもしれません。それは平家一門にとっても運命の分かれ目でした。基実から基通へ、あるいは基実に嫁した平清盛の娘盛子が男子を儲けていたならその子へと摂関家の氏長者の座が受け継がれ、基房にしても兼実にしてもおよそ出る幕はなく、やがては多くの傍流藤原氏と同じ運命をたどったはずでした。   
    
 ともかく基実のあまりに若すぎた死により、二男の基房にお鉢が回って来たというわけです
〈永万2/7/27〉。が、この時点ではまだ、兼実などはせいぜい左大臣・太政大臣の職に甘んじるしかなかったでしょう。というのも、基房が無事に摂政の任を全うすれば、次は基房の子にバトンタッチというのが自然な流れで、つまり松殿家が正統な摂録家として繁栄を極める道も開けたのですから。   
 ところが、時期が悪かったというか、自ら墓穴を掘ったというか、平家一門vs後白河院の対立の横風をまともに受けて基房は失脚
〈治承3(1179)/11/15〉することになります。平家の軍事力に屈服する形で基房は関白の座を追われ、大宰府に流される所を、出家することで備前国への配流に減じられました。   
    
 さて、いよいよ兼実の出番か
……、いえいえ、そうは世の中甘くありません。基房が去った関白の座には亡き兄基実の遺児基通が就きました。父が亡くなった時にはまだ7才の少年だった基通も既に20才になっていました。平家の娘を養母に持ち、さらに基通自身も清盛の娘を妻に迎えていましたから、平家一門の強力なバックアップを得て摂関家嫡流の奪取に成功したわけです。   
 しかし、平家によって立てられた氏長者は、やはり平家の斜陽と共にその足元が危うくなるのは自明の理で、寿永2年(1183)に平家が都落ちし、代って進撃してきた木曽義仲が朝政を牛耳るようになると、あっけなく摂政から引きずり下ろされることになります。   
    
 基通に代り摂政となったのは師家、わずか12才の少年でしたが、その実態は、かつて流罪となり今は京に戻って来ていた先代関白基房の子でした。命惜しさに出家した基房に摂政返り咲きの道はなく、かつての恨みは可愛い我が子の出世ではらさんとばかりに、義仲に必死の売り込み運動を展開した賜物でした。   
 とはいえ、基房・師家父子にしても、やはり義仲と運命共同体であり、京中での木曽勢の乱逆非道の数々に嫌気の差した後白河院により、鎌倉の源頼朝に木曽追討の院宣が下されると、その滅亡を待つまでもなく、またしても基通に奪い返されてしまいます
〈寿永3(1184)/1/22〉。   
 ここで、どうして基通なのか
……。最大の後ろ盾であるはずの平家が未だ西海にあるこの時に、なぜ返り咲くことができたのか……。基通にはもう一つ、強力なコネクションがありました。後白河院の寵童(いわゆる男色の相手)というのは当時の公卿の間では公然の秘密で、兼実も『玉葉』の中で「院の愛物」などとあからさまに記しています。   
    
 以上のように、基実―基房―基通―師家―基通と、目まぐるしい変転が繰り返される中、兼実はそうした身内同士の争いにもまるで関わることなく、勿論、少なからぬ不満は胸中を燻ってはいたでしょうが、自身の身の上に特に火の粉が降りかかることもなく、それこそ時代の激変もどこか他人事のように、右大臣として平和な日々を送っていました。何しろ基通や師家などは朝政の長と仰ぐにはあまりに若輩で頼りなく、何事もまずは九条殿にお伺いを立ててから、との風潮は日増しに高まり、兼実の見識の深さが多くの朝臣の信頼を集めたことは言うまでもありません。   
 偉大なるNo.2
――その称号は、兼実にすれば不本意なものではあったでしょうが、後に彼を襲う悲劇を思えば最も安定した時期だったと言えるでしょう。   
    
 やがて平家が壇ノ浦に滅び
〈元暦2(1185)/3/24〉、新たな覇者である鎌倉の頼朝の影響力が朝政に及ぶようになると、後白河院は弟の源義経を引き立てるなどして頼朝を牽制する動きを見せ始めます。官位を餌にした俗にいう「位打ち」は院のお家芸で、義経もこれにあっさりと嵌り兄頼朝との対立が決定的となります。   
    
 思い返せば、都落ちする平家を見捨て、邪魔になった義仲は鎌倉に追討の院宣を与えて討たせるなど、幾多の争いの影には絶えず後白河院の存在がありました。何の武力も持たない身ながら、院宣という名の紙切れ一枚で思うままに世の中を動かす後白河院の存在は、頼朝にはある意味恐怖だったことでしょう。   
    
 京世界に近づくことの危険性を察知した頼朝は鎌倉を動かず、その上でこちらの意思が通る朝廷とするべく組織変革を模索します。とりわけ後白河院の権勢の封じ込めが第一義であり、よって朝政の最高位を占める摂政が院の寵臣であっては不都合でした。院の息のかからない、中立、もしくは鎌倉寄りの立場をとれる人物が理想であり、ここで一躍兼実が脚光を浴びることとなるのです。   
 時に兼実30歳。12年も右大臣の席に留まり、辛抱に辛抱を重ねた甲斐あってようやくめぐって来た好機でしたが、意外にも、当の兼実にしてみれば『驚思無限』
〈文治2(1186)/3/11〉と戸惑いの方が大きかったようです。   
    
 氏長者となった兼実一門は俄かに活気づきます。   
 内大臣にあった嫡男良通が急死する
〈翌文治4(1187)/2/20〉不幸には見舞われたものの、替って二男良経が着々と立身出世を重ね、文治6年(1190)には長女任子が後鳥羽帝の許に入内〈1/11〉、程なく中宮となります〈同年改元あって建久1/4/26〉。   
 父忠通が養女を迎えて二条帝の后(育子)として以来、実に四代ぶりに摂関家の娘の正妃を実現させたことになります。   
 これで後は任子が男皇子を生み、その子が天皇位に就けば兼実は外祖父となり、人生の勝利者のままその一生を終えることができるはずでした。   
    
 待望の任子懐妊の吉報がもたらされたのは5年後の建久6年(1195)。しかし、兼実の祈りも虚しく生れて来たのは姫宮(昇子内親王)でした。そしてこの時から兼実の人生もにわかに狂い始めます。   
 同年に後鳥羽帝の第一皇子が誕生。生母は源在子で、彼女の実父は法勝寺執行法印能円と言って僧籍にある者でしたが、母が後白河院の近臣源通親に再嫁し、在子も通親の養女となっていました。   
 この頃には既に後白河院は世を去っていましたが
〈建久3(1192)/3/13崩御〉、院の晩年の寵女であった丹後局は尚も朝政への影響力を持ち、通親はこの丹後局と手を結び一大勢力を形勢しつつありました。   
 加えて長女大姫の入内を画策し始めた頼朝の政治方針の転換もあって、次第に兼実は孤立化して行きます。   
 そもそもが、後白河院の権謀術数の防波堤というのが兼実に当てられた役割だったわけですから、その院亡き今、これ以上兼実に力をつけられては困るというのが頼朝の本音だったのではないでしょうか。   
 第一皇子誕生とは言っても、もし仮に今後中宮任子に男皇子が生れれば、母の身分の違いにより弟皇子が皇位につくという逆転が起きないとも限らず、長年、後白河院政との対応に苦慮した頼朝にとっては摂関政治の復活などもっての他だったに違いありません。   
    
 こうした様々な思惑が交錯する中、事件は起きました。   
 建久7年(1196)11月、突如として中宮任子は後宮から追われ、兼実も関白の職を罷免
〈同11/25〉されます。そこには通親一派の讒言があったものと推測されますが、兼実もあまりのショックに筆を取ることもできなかったのか、あるいは九条家の汚点として後世に残すことを憚ったのか、ともかくも現存する『玉葉』は何も語らず真相は霧の中です。   
    
 兼実の失脚により再び基通が関白に返り咲き、やがて後鳥羽帝は譲位して在子の生んだ皇子が即位します
〈建久9(1198)/1/11〉。土御門天皇です。念願の外戚となった源通親は権大納言として基通を補佐する立場ながら、それも表面だけのことで、事実上の実権は通親の手にありました。失意の日々を送る兼実にとっては内大臣としてどうにか廟堂に留まった我が子良経が唯一希望の光で、いつの日か基通に取って代わってくれることに望みをかけます。   
    
 建仁2年(1201)には最愛の妻の死により兼実は出家しますが、その御利益によるものか、同年10月に天敵源通親が急死すると事態が好転、後鳥羽院は基通に替って良経を摂政氏長者とします。兼実はこの時喜悦の涙に肩を震わせたことでしょう。「正義は必ず勝つ!」と言ったかどうか、それは別にして「終りよければ
……」と不遇の日々も良き思い出として「後は極楽往生を待つばかり……」とそんな心持ちでいたことでしょう。   
 ところが
……。   
    
 兼実をさらなる悲しみが襲います。   
 元久3年(1206)、摂政として絶頂期にあった良経が急死、38歳の若さでした。長男良通に続く逆縁の不幸、さらに良経の死因が尋常のものではなく「暗殺!?」とも噂されたとあれば、兼実の受けた衝撃の大きさがいかばかりであったか想像に難くありません。   
 再び氏長者は近衛家に奪われ、摂政位には基通の子家実が就きました。良経の嫡男道家はこの時14歳で従二位権中納言。父を亡くし祖父も出家の身
……と政界における大きな後ろ盾を失ったその前途は決して明るいものではありませんでしたが、それでも兼実は今一度の望みをかけて、道家の養育に力を尽くします。   
 しかし、いかに気力を振り絞ろうとも人の寿命には逆らえぬもので、59歳を迎えた承元元年(1206)4月5日、九条家の将来を道家に託してついに波乱の生涯を閉じます。   
    
 兼実亡き後、道家は紆余曲折を経てようやく兼実の宿願通り摂録の座を近衛家より取り戻します
〈承久2(1221)年〉。時代は実朝暗殺により源氏の血が途絶え〈承久元(1219)年〉、やがて承久の乱〈承久2(1221)年〉へと向かう世上の混迷期にありました。   
 道家の母は一条能保の娘であり、そのまた母が源頼朝の妹であるという縁故により、実朝亡き後、幕府側からの強い要請を受けて、道家の子三寅(後の頼経)が鎌倉幕府四代将軍として迎えられるという流れになります。   
    
 かくして兼実に始まった九条家の名跡は孫の道家の代にその地位を不動のものとし、後世、五摂家と呼ばれる摂関家主流派の過半を占めるに至ります。   
 ちなみに五摂家とは 近衛、九条、二条・一条
(九条流)、鷹司(近衛流)の五家を指し、摂政関白はこの五家から選任される決まりとなるのですが、その例外として、豊臣秀吉と秀次の名があります。   
    
    
 京都東山にある東福寺。   
 紅葉の名所として、毎年多くの観光客を集めるこの古刹は、道家が祖父兼実の菩提を弔うために創建したものと伝えられています。   
   
   
   
  (2003/07/01)
   
   
   
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  〈九条兼実−往古人物記〉
   
   
   
   
   
   
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