平正盛 <たいら・の・まさもり> (?−1121)
 
 伊勢平氏平正衡の子。忠盛の父、清盛の祖父。
 
 承徳元年(1097)、所領伊賀国鞆田荘を故郁芳門院の菩提所六条院に寄進することで、白河法皇に接近し、院の北面となって伊勢平氏の勢力を伸張させる基盤を築いた。
 因幡守在任中の嘉承3年(1108)には、出雲国で反乱を起こした源義親を追討し、その功により但馬守に遷任。
 以後も、北面の中心として悪僧強訴の防御や、西国での海賊追討にあたるなど、治安・軍事面において活躍し、元永2年(1119)に肥前で平直澄を追討した際には、西海・南海の名士を統率し、平氏の勢力を西国に浸透させた。
 その一方で、白河法皇の造寺・造塔には常に成功
(じょうごう=寄進)を重ねて、丹後・備前・讃岐守等を歴任、官位も従四位下右馬権頭に昇り、後の伊勢平氏興隆の道を開いた。
 
【平家物語】
巻 2: 南都牒状
 
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* * * これより 正盛 子息 * * *
 
 
 平忠盛 <たいら・の・ただもり> (1096−1153)
 
 平正盛の子、平清盛の父。
 
 白河院の非蔵人から院の殿上人となり、白河院政末期に院判官代・院御厩預に任じられるなど、下北面の首領的地位を占める一方、院宣により海賊追討使に任じられ、山陽・南海諸国の在地武力を組織する基盤を得る。
 白河院崩御後も、鳥羽院の恩寵を受け、院の別当にも任じられ、
得長寿院造進の功により、内昇殿を許された。
 また、鳥羽院領肥前国神崎荘預所として、対宋貿易に力を入れ、院領荘園支配の面でも手腕を発揮。自らも巨万の私財を蓄え、これを院御所造営や造寺造仏に寄与することで、さらなる出世を重ね、正四位上・内蔵頭・
刑部卿まで昇り詰めた。
 しかし、公卿昇進を目前にしながら、病のため仁平3年(1153)1月15日に死去。享年58歳。
 
 
【平家物語】
巻 1: 殿上闇討・鱸
巻 4: 南都牒状
巻 6: 祇園女御
 
 
1108年(天仁1) 8月 左衛門少尉に補任 13歳
1113年(天永4) 3月 叙爵 18歳
1119年(元永2) 11月 賀茂臨時祭新舞人 24歳
1120年(保安1) 1月 越前守(伯耆→越前) 25歳
3月 石清水臨時祭舞人
1127年(大治2) 12月 備前守(越前→備前) 32歳
1129年(大治4) 1月 従四位上 34歳
3月 海賊追討使に補任
1130年(大治5) 1月 正四位下 35歳
秋頃 院別当
1132年(天承2)   備前守重任と内昇殿の許し
(得長寿院造進の功)
37歳
1135年(保延1) 4月 中務大輔を兼任
海賊追討使に補任
40歳
1136年(保延2) 頃? 美作守(備前→美作) 41歳
1144年(天養1) 10月 正四位上(白河北殿再建の功) 49歳
1145年(久安1) 頃? 播磨守(美作→尾張→播磨) 50歳
1148年(久安4)   鳥羽院執事別当(年預) 53歳
1149年(久安5) 8月 美福門院別当・内蔵頭 54歳
1151年(仁平1) 2月 刑部卿を兼任 56歳
1152年(仁平2) 3月 内蔵頭を辞任 57歳
1153年(仁平3) 1.13 刑部卿を辞任 58歳
1.15 死去
 
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 平忠正 <たいら・の・ただまさ> (?−1156)
 
 平正盛の子。忠盛の弟。忠政とも。
 左兵衛尉となり、元永2年(1119)6月、顕仁親王
(崇徳)家の御監に補される。
 その後、左馬助に任じ、高陽院泰子
(鳥羽后)に仕え、その殿上人となる。
 保元元年(1156)に起きた
保元の乱の際、年来左大臣藤原頼長に臣従していた関係から、崇徳上皇方に参じ、敗北により捕えられると、三人の子息と共に、六波羅にて甥の清盛の手で斬首された。
 なお、罪人となった
“忠正”の名が、公卿の藤原忠雅と読みが同じため、“忠貞”に改名したとの逸話も残されている。
 
 
【平家物語】
巻 2: 教訓状
 
 
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* * * これより 忠盛 子息 * * *
 
 
 平清盛 <たいら・の・きよもり> (1118−1181)
 
 平忠盛の嫡男。
 但し、白河法皇の落胤とする説もある。
 
 父忠盛の死後、平氏武士団の棟梁となり、保元・平治の両乱で勝利をおさめ、中央政界における唯一の武門としての地位を確立。以後、急激に累進し、仁安2年(1167)には太政大臣の極官にのぼり、世に
「平相国」と称された。
 
 翌仁安3年(1168)、病により出家し、摂津国福原に隠退するが、その後も権力を掌握して、娘盛子を関白基実の北政所とし、さらには、娘徳子を高倉天皇の中宮として入内させるなど、天皇家及び摂関家への勢力拡大を図る一方、大輪田泊の大修築や瀬戸内海航路の開発を手掛けて、
日宋貿易の推進にも努めた。
 かくして、多数の知行国・荘園と日宋貿易を主要な経済基盤として、
「一門の公卿16人、殿上人30余人」といわれる全盛時代を現出するに至った。
 
 しかし、平氏政権の伸長に比例して、貴族層や地方武士などとの対立が激化し、安元3年(1177)には後白河院の近臣による
“鹿ヶ谷事件”が起きたこともあって、治承3年(1179)11月、武力によって後白河法皇の院政を停止して、独裁権力を確立した(治承3年のクーデター)
 が、この政変は逆に、寺院の大衆勢力や関東武士などの反平氏勢力の蜂起を促すことになり、待望の娘徳子の生んだ言仁親王の即位が成った翌治承4年(1180)には、5月の
以仁王の挙兵を契機として、やがて、全国的な内乱へと突入した(治承・寿永の乱)
 清盛は、
福原遷都南都焼討ちなどを行い、反乱の鎮圧に努めたが、追討の効果があがらない中、治承5年(1181)閏2月4日、熱病により没した。享年64歳。
 
 
【平家物語】
巻 1: 祇園精舎・鱸・禿髪・吾身栄花・祇王・
清水寺炎上・殿下乗合
巻 2: 座主流・西光被斬・小教訓・少々乞請・
教訓状・烽火之沙汰・阿古屋之松・
徳大寺之沙汰・卒塔婆流
巻 3: 赦文・御産・公卿揃・大塔建立・医師問答・
法印問答・大臣流罪・行隆之沙汰・
法王被流・城南之離宮
巻 4: 厳島御幸・還御・源氏揃・鼬之沙汰・信連・
南都牒状・若宮出家
巻 5: 都遷・物怪之沙汰・早馬・五節之沙汰・
都帰・奈良炎上
巻 6: 小督・廻文・飛脚到来・入道死去・築島・
慈心房・祇園女御・
巻 8: 大宰府落
巻 9: 三草勢揃
 
 
1129年(大治1) 1. 6 従五位下 12歳
1.24 左兵衛佐
1135年(長承4) 1. 5 正五位下 18歳
8.21 従四位下
(父忠盛搦進海賊賞)
1136年(保延2) 4. 7 中務大輔 19歳
1137年(保延3) 1.30 肥後守(造進熊野本宮賞) 20歳
1140年(保延6) 11.14 従四位上(中宮行啓賞) 23歳
1146年(久安2) 2. 1 正四位下(朝覲行幸賞) 29歳
2. 2 安芸守
1156年(保元1) 7.11 播磨守 39歳
1158年(保元3) 8.10 太宰大弐 41歳
1160年(永暦1) 6.20 正三位 43歳
8.11 参議
9. 2 右衛門督
12.30 太宰大弐を辞任
1161年(永暦2)
     (応保1)
1.23 別当、近江権守 44歳
9.13 権中納言
1162年(応保2) 4. 7 皇太后宮権大夫 45歳
8.20 従二位
(稲荷祗園行幸行事賞)
9.   右衛門得・別当を辞任
1165年(長寛3)
     (永万1)
1.23 兵部卿 48歳
8.17 権大納言
1166年(永万2)
     (仁安1)
 
6. 6 正二位 49歳
10. 1 春宮大夫
11.11 内大臣
1167年(仁安2) 2.11 従一位・太政大臣 50歳
5.17 太政大臣を辞任
1168年(仁安3) 2.11 病により出家(法名浄海) 51歳
1180年(治承4) 6. 1 准三宮宣旨 63歳
1181年(養和1) 閏2.4 病により死去 64歳
 
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 平家盛 <たいら・の・いえもり> (1123?−1149)
 
 平忠盛の二男。母は修理権大夫藤原宗兼の娘藤原宗子(後の池禅尼)で、頼盛の同母兄。
 母の宗子が後妻とはいえ、忠盛の正妻の地位にあったことと、嫡男である清盛には、白河法皇の落胤との噂もあったため、自ずと清盛の対抗馬に押し上げられる存在であったが、病により若くして急逝。
 後に、平治の乱で源頼朝が捕縛された際、この家盛に似ているとして、池禅尼が助命嘆願に動き、その結果、頼朝は死罪を免れ伊豆への配流となったエピソード(平治物語)は有名。
《詳細は 往古人物記 を参照》
1134年(長承3) 3.11 六位蔵人 12歳
1138年(保延4) 3.   石清水八幡宮臨時祭舞人 16歳
 ? 年( ? ) ?  従五位下左兵衛佐 ? 
1142年(康治1) 7.12 行幸不供奉により恐懼(謹慎) 20歳
8. 3 恐懼が解かれる
1143年(康治2) 1. 6 従五位上 21歳
4.19 賀茂斎王禊前駈
1146年(久安2) 11. 4 宇佐神宮使 24歳
1147年(久安3) 1. 5 正五位下・左兵衛権佐 25歳
11.14 常陸介
賀茂臨時祭舞人
1148年(久安4) 1.28 従四位下・右馬頭 26歳
1149年(久安5) 3.15 熊野参詣よりの帰途に急死 27歳

  ※年齢は1123年生まれと仮定してのものです
 
 
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 平経盛 <たいら・の・つねもり> (1125−1185)
 
 刑部卿平忠盛の三男。母は源信雅女で清盛の異母弟。
 母の出自が低かったため、弟の教盛や頼盛に比べ、昇進は遅かったが、伊賀守・若狭守・内蔵頭等を歴任し、安元3(1177)年1月に正三位、治承3(1179)年11月に
修理大夫となり、養和元(1181)年12月に参議に至る。
 父忠盛の歌人的側面を受け継ぎ、仁和寺歌会や二条天皇内裏歌会などに参加。また、太皇太后宮多子の職事を永く務めたことから、女房の小侍従や実定・実家ら閑院流の人々とも親交があり、『千載集』には、朝敵たるにより「よみ人しらず」として1首入集、『新勅撰集』以下に11首が入集している。
 寿永2年(1183)7月の平家都落ちに際し、一門と行動を共にしたが、寿永3(1184)年2月の
一の谷の合戦では、経正・経俊・敦盛と愛息が悉く戦死する悲運に見舞われ、自身も翌元暦2(1185)年3月、壇ノ浦の合戦において、弟教盛と共に入水死を遂げた。
 
 
【平家物語】
巻 1: 神輿振
巻 7: 平家山門連署・一門都落
巻 8: 緒環
巻 9: 落足
巻11: 能登殿最期
 
 
1150年(久安6) 6.25 叙爵 27歳
1156年(保元1) 9.17 安芸守(兄清盛朝臣申任之) 33歳
閏9.22 常陸介に遷任
1157年(保元2) 10.22 従五位上 34歳
1158年(保元3) 8.10 常陸介を辞任 35歳
1159年(平治1) 12.27 伊賀守 36歳
1160年(永暦1) 4. 3 正五位下 37歳
4. 7 大宮権大進
8.14 従四位下
1161年(応保1) 9.15 左馬権頭(教盛解官替) 38歳
10. 8 従四位上
10.19 若狭守
1162年(応保2) 7.17 大宮亮 39歳
1163年(長寛1) 12.20 正四位下  40歳
1165年(永万1) 10. 2 左馬権頭を辞任
 (以譲男経正)
42歳
1168年(仁安3) 8.12 内蔵頭 45歳
1170年(嘉応2) 12.30 従三位・非参議 47歳
1171年(嘉応3) 1.18 讃岐権守 48歳
1177年(安元3) 1.24 正三位 54歳
1178年(治承2) 1.28 大宮権大夫 55歳
1179年(治承3) 11.17 修理大夫 56歳
1181年(養和1) 12. 4 参議 58歳
1182年(養和2) 3. 8 備中権守 59歳
1183年(寿永2) 8. 6 解官(依赴西国也) 60歳
1184年(寿永3) 2. 7 一の谷の合戦において経正
・経俊・敦盛らの子息が討死
61歳
1185年(元暦2) 3.24 壇ノ浦の合戦において入水 62歳
 
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 平教盛 <たいら・の・のりもり> (1128−1185)
 
 平忠盛の四男。母は太皇太后宮権大夫藤原家隆女で待賢門院女房。清盛の異母弟。
 
 保元・平治の乱を挟んで、淡路守・左馬権頭・大和守・越中守・常陸介等を歴任したが、応保元年(1161)、憲仁親王の立太子を企てた廉により、清盛の義弟平時忠と共に、官職解却の処分を受けた。
 しかし、翌応保2年(1162)に許されると、能登守・内蔵頭・春宮亮等に任じられ、高倉天皇の即位した仁安3年(1168)には蔵人頭を経て参議となり、正三位に昇進。さらに養和元年(1181)に権中納言、寿永元年(1182)に従二位、寿永2年(1183)には中納言に転じ、自身の邸宅「門脇殿」にちなみ、
門脇中納言と称された。
 
 清盛の没後は、平宗盛の後見役としてこれを補佐し、都落ちした寿永2年(1183)には、
備中水島・播磨室山の合戦で源行家の軍を破り、一時は失地回復に転じたが、翌寿永3年(1184)2月の一の谷合戦で、子息の通盛・業盛を失い、元暦2年(1185)3月24日、壇ノ浦の合戦において入水した。
 
 
《はみだし余録》
   平家一門の本流は壇ノ浦において滅亡しましたが、片や、平家の血を引く娘達の多くは、公家の妻女として、命永らえています。
 中でも、教盛の娘で藤原範季室の教子は、娘の
重子が、後鳥羽天皇の寵を受けて、皇子まで儲け、この、教盛には“ひ孫”に当たる皇子が、後に、即位して順徳天皇となるのですから、世の中というものは、本当にわからないものです。
 
 
 
【平家物語】
巻 1: 神輿振
巻 2: 少将乞請・阿古屋之松・康頼祝言
巻 3: 赦文・御産・公卿揃・少将都帰
巻 7: 平家山門連署・一門都落
巻 9: 六ヶ度軍・三草勢揃・小宰相身投
巻11: 能登殿最期
 
 
1148年(久安4) 1.28 左近将監 21歳
2. 5 蔵人 
4. 6 叙爵
1151年(仁平1) 2. 2 淡路守(父忠盛辞播磨守任) 24歳
1153年(仁平3) 1. 5 従五位上 26歳
1157年(保元2) 10.22 正五位下(造陰明門功) 30歳
1158年(保元3) 4. 2 左馬権頭 31歳
12.29 大和守に遷任
1159年(保元4)
     (平治1)
1. 3 従四位下 32歳
12.27 越中守に遷任
1160年(永暦1) 1.21 常陸介に遷任 33歳
6. 3 従四位上
10.11 正四位下
1161年(応保1) 9.15 解却所職
(憲仁親王立太子の企て)
34歳
1162年(応保2) 7.17 能登守 35歳
1164年(長寛2) 2. 8 内蔵頭 37歳
1165年(永万1) 12. 2 能登守を辞任
(以男通盛申任常陸介)
38歳
1166年(仁安1) 10.10 春宮亮 39歳
1168年(仁安3) 2.19 蔵人頭(高倉天皇践祚) 41歳
8.10 参議
8.12 正三位
1169年(仁安4) 1.11 丹波権守 42歳
1181年(養和1) 12. 4 権中納言(参議労14年) 54歳
1182年(養和2) 3. 8 従二位 55歳
1183年(寿永2) 4. 5 中納言に転ずる 56歳
8. 6 解官(西国に赴くにより)
1185年(元暦2) 3.24 壇ノ浦の合戦において入水 58歳
 
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 平頼盛 <たいら・の・よりもり> (1131−1186)
 
 平忠盛の五男。母は修理大夫藤原宗兼の娘宗子(後の池禅尼)で、清盛の異母弟、家盛の同母弟。
 
 1147年(久安3)に従五位下に叙され、以後、常陸介・安芸守・三河守等の地方官を歴任しつつ、右兵衛佐・中務権大夫・右馬頭・内蔵頭・修理大夫等を兼任した。
 兄の経盛や教盛よりも昇進が早かったのは、早世した同母兄家盛の跡を継いだためであり、これは多分に、母宗子の出自による所が大きい。
 1166年(永万2)に太宰大弐に任じられると、当時としては異例のことながら、自ら任地へ赴き、これにより従三位に叙されている。
 その後も、右兵衛督・参議・右衛門督・中納言と順調に昇進を重ね、1183年(寿永2)には権大納言となり、邸宅の呼称「池殿」にちなみ
池大納言と呼ばれた。
 
 しかし、一方で、後白河院・八条院とも緊密な関係にあったため、時として異母兄清盛と対立し、1179年(治承3)の後白河法皇の幽閉、関白松殿基房以下の解官・配流に際しては
(治承3年のクーデター)、頼盛自身も解官・恐懼(謹慎)に処されている。
 清盛の死後は、平家一門内での孤立化にいっそう拍車がかかり、1183年(寿永2)の平家都落にも途中で離脱し、法皇を頼って帰京。
 かつて、平治の乱の際に、母の池禅尼が源頼朝の助命に尽力したことから、一度は没官された家領も再び安堵され、また、招かれて鎌倉へも下向し、厚遇を受けている。
 1184(元暦1)年6月に権大納言に還任されたが、半年で辞任し、平家一門が滅亡して間もない1185年(元暦2)5月には、病により出家
(法名重蓮)。翌1186年(文治2)6月2日に死去した。
 
 
【平家物語】
巻 1: 神輿振
巻 3: 公卿揃・頼豪
巻 4: 若宮出家
巻 5: 都遷
巻 7: 平家山門連署・一門都落
巻10: 三日平氏
灌頂: 女院死去
 
 
1146年(久安2) 4.11 皇后宮権少進 16歳
1147年(久安3) 8.23 蔵人 17歳
10. 4 従五位下
1149年(久安5) 6. 4 常陸介 19歳
1150年(久安6) 10. 2 従五位上 20歳
1153年(仁平3) 1. 5 正五位下 23歳
1156年(保元1) 閏9.2 安芸守 26歳
1157年(保元2) 1.24 右兵衛佐 27歳
10.22 従四位下
10.17 中務権大輔
1158年(保元3) 10. 3 三河守 28歳
11.26 従四位上
1159年(平治1) 12.27 尾張守 29歳
1161年(永暦2)
 
     (応保1)
2.28 正四位下 31歳
4. 7 皇太后宮亮
10.29 右馬頭
1162年(応保2) 4. 7 内蔵頭 32歳
7.17 修理大夫
(右馬頭・内蔵頭を去る)
1163年(応保3) 1.24 尾張守を辞任
(以男保盛申任越後守)
33歳
1166年(永万2)
     (仁安1)
 
 
7.15 太宰大弐 36歳
8.27 従三位
10. 8 大宰府へ赴任
10.21 皇太后宮権大夫
1167年(仁安2) 1.28 正三位 37歳
4.17 大宰府より帰洛
1168年(仁安3) 7. 3 右兵衛督 38歳
10.18 参議(修理大夫を去る)
11.28 解却所職
(右兵衛督・太宰大弐も去る)
1169年(仁安4) 12.30 還任(正三位・参議) 39歳
1170年(嘉応2) 1.18 尾張権守 40歳
1176年(安元2) 12. 5 権中納言 46歳
1179年(治承3) 1.19 左兵衛督 49歳
10. 9 右衛門督
11.17 解官・恐懼(右衛門督も止)
1180年(治承4) 1.23 被聴出仕 50歳
4.21 従二位(御即位)
6. 4 正二位(行幸福原亭賞)
1182年(養和2)
     (寿永1)
3. 8 陸奥出羽按察使 52歳
10. 3 中納言に転じる
1183年(寿永2) 4. 5 権大納言 53歳
8. 6 解官(族雖赴西国独留洛中)
10. 9 関東へ下向
1184年(元暦1) 6. 5 還任(正二位・権大納言) 54歳
12.20 権大納言を辞任
(以男侍従光盛申任左少将)
1185年(元暦2) 5.29 病により出家 55歳
1186年(文治2) 6. 2 死去 56歳

 ※ 公卿補任での年齢とは異なります
 
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 平忠度 <たいら・の・ただのり> (1144−1184)
 
 平忠盛の子で、清盛の末弟。母は鳥羽院の御所の女房で、丹後守藤原為忠女などと伝えられるが未詳。
 極官は正四位下
薩摩守兼左兵衛佐。
 
 源平争乱に際し、1180年(治承4)の
富士川の合戦で副将軍、1183年(寿永2)の墨俣川・礪波山等の合戦では大将軍の一人として参戦するなど、軍事面において重きをなしていたが、翌1184年(寿永3)2月の一の谷の合戦で、敗走の途に討死。
 『平家物語』には、都落ちの際に、師の藤原俊成に詠草を託し、後に、その一首が『千載集』に「よみ人知らず」として入集されたこと、また、誰とも名乗らず討ち取られたが、箙に結びつけられていた和歌により、忠度と判明したことなど
“歌人忠度”を偲ぶエピソードが多く残されている。
 
 
《小噺一席》
   無賃乗車のことを俗に「薩摩守」と言いますが、その語源はここに登場の平忠度に由来します。なぜって?
  忠度→ただのり→タダ乗り(バンザ〜イ!?)
 
 
 
【平家物語】
巻 4: 橋合戦・三井寺炎上
巻 5: 富士川・都帰
巻 7: 北国下向・竹生島詣・火討合戦・主上都落・
忠度都落・一門都落
巻 8: 緒環
巻 9: 忠度最期・落足
 
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