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――筑紫は博多筥崎(はこざき)。
いにしえより、異国との交易の窓口として長く栄えてきた西海随一の港町は、かの菅原道真の進言により遣唐使船が廃され、大陸との正式な国交が絶たれた後も、訪れる商船が絶えることはなく、以来、200有余年の歳月を経てなお、対宋貿易の拠点として活気に満ちあふれていた。
時に平安と呼ばれる世も末の仁安2年(1167)。
清爽なばかりに晴れ上がった蒼天には、間もなく天下を混迷に陥れるであろう暗雲の影など一片も認められない、そんなある日のことであった。
「これは玄武(げんぶ)のお頭(かしら)」
港に続く大路を行く大柄の男を呼び止めた声の主は、異国の衣裳をまとった中年の男だった。
「楊(やん)か……」
玄武と呼ばれた男がにこやかに応じる。
「これからおまえの店に参る所だ」
「それは丁度よろしゅうございました」
異なる風体をした二人の男は、昔からの朋友のように久方ぶりの邂逅(かいこう)をしばし喜び合い、やがて肩を並べて歩き出した。
「いい品は入っているか?」
玄武の問い掛けに、髭(ひげ)を蓄えた面長の顔もつと綻(ほころ)ぶ。
「荒波を越えての命懸けの航海ですぞ。その甲斐のないものを運ぶ余裕などありませぬからな。どれもこれも選りすぐりの品ばかりにございます」
楊の得意げな口振りに、玄武も苦笑を浮かべる。
「そうであったな……」
楊孫徳(やん・そんとく)は海を隔てた大国宋(そう)の商人で、この筥崎の港にも大きな店を構え、自ら船を操り、宋と筑紫を行き来していた。
が、その風貌には海の男特有の豪放磊落(ごうほうらいらく)といった趣はなく、長身ですらりとした容姿は、一見、文官のような印象をも与える。
また、日頃の立ち居振舞いにも、どこかしら気品が感じられるのは、本来は貴族の縁に連なるという、その高貴な出自ゆえのことであろう。
しかし、自国では揺ぎ無い大商人の地位を有する楊孫徳も、自身よりいささか年若いこの玄武に対しては、常に敬意を払った応対を欠かすことはなかった。
「それにしても、大した賑わいだな……」
沖に停泊する巨大な唐船からは積荷を満載にした小船が次々に送り出され、陸では荷揚げ仕事に精を出す男達の熱気がほとばしる。まさに一年で最も活気ある時節の到来であった。
「昨日も宋より新しい船が入ったようにございます……」
「荷運びの人足であふれ返っている……」
「今がかきいれ時ですからな……」
ふと脇に目を遣ると、年端(としは)も行かぬ子供まで荷を担ぐ姿があった。
大人でも手に余る、子供にすれば両の手に収まり切らぬほどの大きな木箱である。当然のことながら視界も遮られ、足許がどうにも危なっかしい。
案の定、路傍(ろぼう)の石につまずいてくずおれるや、抱えていた荷もゴトッと大きな音を立てて、足許を転がっていた。
「馬鹿野郎! 何をしてやがる! 大事な荷を放り出しやがって!」
いきなり主人とおぼしき男が飛んで来て、鞭(むち)を振るった。
「子供とて容赦はせんぞ!」
一度ならずも二度三度と鞭が飛ぶ。その度に声にもならない小さな悲鳴が上がり、玄武も見かねてがついと身を乗り出しかけた。が、それよりもわずかに早く、二人の間に割って入る者があった。
強くしなった鞭は、子供の楯となった若い男の背中をしたたかに打ち据えた。
「邪魔をするな!」
主人の怒声にも、男は頑として動こうとはしない。
「どけ! どけと申すに!」
主人は構わず男の背を何度も打ち据える。
まるで何かに憑(つ)かれたように一心不乱に打ちかかる様は、箍(たが)の外れた木偶(でく)さながらの不気味さで、玄武も思わず目を覆いたくなるほどであった。が、一しきり打ち続けてさすがに息が上がったものか、次に振り上げた手がふと頭上高くに掲げられたまま急に動かなくなった。
深く呼吸して、乱れた息を整えるうちに幾分落ち着きを取り戻したのだろう、遠巻きに見つめる多くの目に気づくや、途端に顔色を変えた。
いつの間にか鞭打ちの鋭い音を聞きつけて随分と人が集まって来ていた。
その好奇の中にも、どこか侮蔑の入り混じった冷たい視線を感じて、主人は慌てて振り上げた腕を降ろすと、鞭を押し隠すように両の手で握り締めた。
「馬鹿めが……。もういい! 仕事に戻れ! 但し、今日は飯抜きだぞ!」
捨て台詞もそこそこに、主人は逃げるようにそそくさと立ち去った。
男は尚もうずくまったまま身じろぎ一つしない。あの激しい打たれ様では、大の大人といえどもそう耐えられるものではない。
(何とかせねば……)
玄武も頭ではそう思うものの、なぜか足を踏み出すことができない。
そう、『何か』が玄武に近づくことをためらわせていた。
「うっ……」
ようやく聞き取れるほどの小さなうめき声をもらして、男はゆっくりと身体を起こした。それにつれて、男の腕の中にすっぽりと収まっていた子供の姿も露わになる。
ところが、子供の目はどこか冷ややかだった。着物の裾(すそ)の土埃(つちぼこり)を丁寧に払いのけられている間も、何か恐ろしいものにでも出くわしたかのように、ただ凍りついた視線を投げ掛けるばかりで、やがて、じりじりと後ずさりしたかと思うと、一目散に駆け出して行った。
玄武も含め、その場に居合わせた誰もが何事かといぶかった。が、その謎もすぐさま解けた。
おもむろに立ち上がり、こちらを振り返った男の姿に皆がそろって息を飲み、悲鳴にも似た叫びがそこかしこに上がった。
ゆうに七尺はあろうかという身の丈に、肌の色は黒味を帯びた褐色――。がっしりと逞(たくま)しい体躯(たいく)に、彫りの深い目鼻立ちの整った容貌は毘沙門天(びしゃもんてん)の眷属(けんぞく)・羅刹天(らせつてん)を思わせる。大和(やまと)の国の者でないことは一目瞭然だった。
「鬼じゃ……」
ひそひそと囁き合う声――。明らかな侮蔑をはらんだ、文字通り突き刺すような鋭い視線――。
男はそれらを一身にまといつつ、放り出された木箱に手をかけた。その一挙手一投足にも注視の目が光る。
やがて、いかった肩に軽々と木箱を担ぎ上げると、辺りは俄かに緊張に包まれた。
(放り投げて来たら何としよう!)
一同の目は、そう物語っていた。玄武の胸にも一抹そんな不安がよぎった。
しかし、危惧するようなことは無論何も起きはしない。それどころか、男はまるで関心がない……とばかりに、この場の誰一人顧(かえり)みることなく、ただ、遠く前方の一点のみを見据えて無言のまま去って行った。
(何というやつだ……)
雑踏に消え行く後ろ姿を見送りながら、玄武は如何(いかん)ともし難い思いを抱えてしばしその場に立ち尽くした。
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