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玄武達が楊孫徳の店を後にしたのは、もう日も暮れかけた時分だった。
数々の品を山積みにした荷車を弥太と伝六が運び、その後を玄武が少し遅れて歩いていた。
迫り来る闇に急き立てられるように、家路をたどる流れのままに港のはずれ辺りまでやって来た一行は、やがて突如として、異様な興奮に包まれた黒山の人だかりに遭遇した。
「何だろう?」
伝六はいの一番に人込みに分け入った。
「おい、伝六! 全くしようのない奴だな……」
車を放り出し、嬉々として騒ぎに飛び込んで行った伝六を弥太は呆れ顔で眺めていた。
この弥太は年の頃は三十手前というところだろうか。手下の中では一番のしっかり者で、玄武の片腕ともいうべき存在なのだが、年の割にはどうも頭が固く、融通が利かないところが頼もしい反面、扱いの難しい男でもある。
片や伝六の方は元は孤児だったのを玄武に拾われたのだが、年は十二になるものの、同年の子供と比べると背丈は低く、いささか貧相な身体つきをしている。もっとも、その分すばしっこさでは右に出る者はなく、またいつも大人達の間を立ち回っているせいか実に要領がいい。
ただ、好奇心の強いたちで、何でもどこにでも首を突っ込みたがるのが玉に傷だった。
程なく伝六は人を押し分け戻って来た。
「盗みがあったらしい……」
早速、聞き込みの成果をつまびらかにし始める。
「何でも、宋渡りの高価な仏像が無くなったとかで……。けどすぐ犯人は捕まったみたいだ……」
多くの品が荷揚げされる港で盗人など珍しくもなく、一気に興をそがれたのだろう、伝六の口調はどこか投げやりだった。弥太もそのまま通り過ぎようと、伝六を促し荷車の轅(ながえ)に手をかける。が、玄武はなおも喧騒(けんそう)の群れをじっとにらんでいた。
「……お頭?」
弥太の声に押し出されるように、玄武は前に足を踏み出した。
「お頭!」
玄武は人垣を乗り越え、どうにか騒ぎの真っ只中に分け入った。十人ばかりの荒くれ人足達が目を血走らせている。そしてその渦中には……、昼間見かけたあの男の姿があった。
「おい、仏像をどこへやった!」
「白状しろ!」
拳が振るわれる度に、野次馬の悲鳴とも歓呼ともつかぬ喚声が上がる。
男は鬼神の如き外見とは裏腹にまるで抗う構えも見せず、ただなされるままに打ち据えられていた。
やがて、とりわけ強い鉄拳がみぞおちの辺りを捕えるや、男はひどくむせ込みついに地面にうつぶした。
完膚(かんぷ)なきまでに叩きのめされるとは、こういうことを言うのだろう。散々にいたぶり、もはや止めを刺すばかりの獲物を見つめる狩人よろしく、ぐるりと取り囲んだ男達の目には、揃って嗜虐(しぎゃく)に満ちた薄ら笑いが浮かんでいた。
しかし、それもほんのわずかの間のことで、じきに驚愕の色に変わっていた。
男はなおも手足を蠢(うごめ)かせることをやめようとはせず、あらん限りの気力を振り絞りどうにか身体を起こすと、もはや踏ん張りもきかないはずの両足になけなしの力を込めて、よろよろと立ち上がった。
肩で息をして、そもそも、こうして立っていることすらも不思議と思われるほどに、手ひどく痛めつけられていながら、なおも強い光をたたえた双眸(そうぼう)――、そこにはやましさの影など、微塵(みじん)も認められなかった。
「しぶとい野郎だな!」
人足の一人がまたもや拳を振り上げた。
と思いきや、次の瞬間その手は何かに引っ張られるように止まり動かなくなった。男がいぶかって振り返ると、玄武がその腕をがしりとつかんでいた。
「何をしやがる!」
男は憎々しげに玄武をにらみつけ、力任せに振りほどこうとする。が、びくとも動くものではなかった。
「いい加減にしたらどうだ……」
水を打ったような静けさに、殊更、玄武の低い声は響き渡った。
「大勢で寄ってたかって……、とても恰好の良いものではあるまい。気風(きっぷ)の良さが海の男のいい所だろうが……」
「……何だと! こいつは盗みを働いたんだぞ! 荷に手をつけるなんぞ、絶対あってはならねえことだ! こいつは俺達人足の面汚しだ!」
一転して、甲高い罵声がこだました。
「こいつが盗んだという証拠でもあるのか?」
玄武はなおも男の腕をつかんだまま、さらに声を低めて詰め寄る。
「……証拠? そんなもの……」
人足達は玄武の漂わす重圧感に完全に呑まれていた。
「だいたい……、こいつの他に誰がいる! 他に怪しいやつはいないだろ!」
辺りを見回し、男は賛同を求めるも、誰もが一様に顔を背けた。
「俺はこいつを信じる!」
玄武は、目前の異形の男を、真っ直ぐに見据えた。
「この玄武が責任を持つ。それでどうだ!」
「……玄武?」
その名を聞いて、人足達は顔を見合わせた。先程までの勢いはどこへやら、瞬く間に顔つきまで一変し、あからさまな追従笑いを浮かべる者さえいる。
(何という変わり身の早さか……)
玄武はいささか呆れながらも、ようやくつかんでいた腕を放した。
「玄武のお頭がそこまでおっしゃるなら……、今日のところは見逃してやる。だが、この次は覚悟しておけよ!」
威勢ばかりよく、しかし、次の瞬間には逃げの一手で人足達はその場から離れて行った。
騒ぎが治まってしまえば、物見高い野次馬といっても、もはや留まるものではない。
ざわめきと共に引き始めた人の波――それに攫(さら)われるでなく、二人の男はただ無言で互いを見つめ合っていた。
さながらそれぞれの心中を探り合うかのように……。
「派手にやられたな……」
先に玄武が口を開いた。途端に男は崩れるように膝をついた。
「おい、大丈夫か!」
玄武は慌てて両脇を抱え、倒れ臥す寸前の男をようやく支えた。
無理もない。いったいどれだけの拳をこの身体に受け止めたのか……。
強靭(きょうじん)な肉に鎧(よろ)われているものと思っていた体躯(たいく)も、いざこうして間近にしてみると、意外に華奢(きゃしゃ)で、その風情も決して幽鬼(ゆうき)のものではない。それどころか、己と何一つ変わる所などないまさしく生身の人間なのだと、玄武もつくづくそう実感させられていた。
「……立てるか?」
気遣いつつ促した玄武に、男はその風貌にはいささか不似合いな屈託のない笑みを浮かべて、しっかりとうなずき返した。
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