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青龍の招く宿縁 (参) |
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神護寺を後にしてからというもの、重衡はずっと押し黙ったままだった。そのいつにない深刻な面持ちに、傍らを行く竜も、口にすべき言葉を見つけることができずにいた。
「私は、あんな坊主の戯言(たわごと)になど、惑わされたりはせぬ。だから、竜……、おまえも気にするでないぞ!」
重衡はようやく口を開いたものの、その表情は尚も険しいままであった。
「平家が滅びるだの、私とおまえが敵対するだの、いい加減なことばかり……。よくあれだけ虚言を並べ立てられるものだ……」
そう言いながら、こみ上げてくる怒りの遣り場に困った重衡は、路傍(ろぼう)の石を拾い上げると、川面にめがけて、思いきり投げつけた。
「重衡……」
「何だ!」
不機嫌顔で振り返った重衡は、急に立ち止まった竜を訝(いぶか)った。
「いかがしたのだ?」
重衡は仏頂面のまま問い返す。
「さっきは……、嬉しかった……」
何やら不意打ちをくらわされたようで、重衡もしばし唖然となった。
「俺のことを友だと……、そう言ってくれた……」
どこか淋しげな影を引きずりながらも、真摯(しんし)な眼差しを向ける竜に、重衡の渋面(じゅうめん)も、俄かに和らいだ。
「当たり前だ! おまえは私にとって、ただ一人、心許せる友だ。これから先も、ずっと変わりはせぬ!」
友――それは、これまで何一つ、確かなものなど持ち得なかった竜にとって、何より心を打つ、嬉しい響きだった。
「憶えているか? これを……」
重衡は脇に差した小さな腰刀を、竜の前に差し出した。
「父上から頂いたこの腰刀を、宗盛の兄上に取り上げられて……。返して欲しい一心で、穴の開いたボロ船に乗った。泳げもしないものを……。案の定、溺れて……、おまえに助けられた。だが、あんなことがなければ、こうして、おまえに出会うこともなかったのだからな……。不思議なものだ……」
海の中でもがき苦しみ、必死に取り縋(すが)ったその手が、よもや今日の日まで繋がっていようとは、重衡自身、あの時は思いもしなかったことだった。
「このことでは、あの宗盛の兄にも感謝せねばなるまい。癪(しゃく)にさわるがな……」
苦笑いを浮かべながら、腰刀を脇に差し直すと、重衡は天を仰いで、一度、大きく伸びをした。
「それにしても、全く……、いったい何を向きになっていたのか……。たかが、一介の僧の広言に、かように取り乱すとは……」
成り行きとはいえ、一時でも、完全に自制心を失ってしまったことに、重衡も今さらながら、ひどい自己嫌悪を覚えた。
「それもこれも、伝六のやつのせいだ。妖しい術師などと余計なことを吹き込むゆえ、つい気を回し過ぎて……。あいつの臆病風に当てられて、どこか弱腰になっていたのだろう……」
あれやこれやと理由をつけては、必死に言い繕(つくろ)う重衡を、竜は穏やかな目で見つめていた。
「だいたいが、我ら一門を快く思わぬ輩は、京中にごまんといる。『平家が滅ぶ』などと言われたとて、今さら驚くほどのことでもなかったのだ」
「……」
「世の風評に踊らされて、道を踏み誤ることのなきようにと、父上も常々仰せになっておられたものを……」
そう言って、ふと、重衡も真顔になった。
「人は、他人の幸不幸を面白おかしく論じるのを楽しみとするが、だからと申して、それが真か否かになど、まるで執心を持たぬものだ。あり得ぬものほど、皆嬉々として口に上らせるゆえ、世間に広く知られることにもなる……。例の、文覚の妖しい術などは、その最たるものだ。そのような不確かなものに、真を求めた所で何になろう……」
ここに、重衡の憤悶(ふんもん)も、一応の決着を見ることとなった。
「確かに……、人の噂ほど、あてにならぬものはないらしい……」
これまで、聞き役に徹していた竜が、ふいに口を挟んだ。
「法住寺殿(ほうしゅじどの)の女院様もそうだった……」
「……女院様だと?」
出し抜けの話に、重衡は素っ頓狂(すっとんきょう)な声を発した。
「実は、この間、吉次について法住寺殿に行った時に、奥の御殿に迷い込んだ所を見つかってな……」
「そのようなことがあったのか! 女院様は何も仰せではなかったが……。それで、大丈夫だったのか? 院の侍にでも見つかれば、それこそ大ごとだぞ!」
自然と、重衡の目にも力が入る。
「女院様が、見逃して下された……」
「……そうか」
重衡は安堵(あんど)の思いに頬を緩ませながら、しかし、そうした些細(ささい)なことにも一々気を揉む己に、いささか自嘲の念も禁じえなかった。
「女院様といえば、高慢で、もっと取っ付きにくいお方と思っていた。そんな噂ばかり、耳に入って来ていたからな……。けど、実際お目にかかってみると、そんな様子など微塵もなくて……、むしろ、とても優しいお方に見えた……」
竜は、あの時感じた建春門院の心の悲しみには、あえて触れることはしなかった。
「物の是非をはっきりと申されるゆえ、そのような噂が立つのやもしれぬ。だが、本当は誰よりも一門のことを思うておられる。重衡自慢の叔母上だ」
強い光にあふれる眼差しが、あの日見た女院のそれを思い起こさせた。
「重衡と女院様って……、どこか似ているな……」
自然と、口をついて出た言葉だった。が、それを聞いた重衡は、また軽く小首をかしげた。
「……そうか? 母とは姉妹だからな。そうとしても、不思議ではないが……。しかし、そのようなことを言われたのは、初めてだ……」
重衡はさして気にするふうでもなく、竜に笑いかけた。そこには、もはや、何のわだかまりの影も感じられなかった。
「少し先を急ぐか……。日暮れまでに戻らねば、何かとうるさい……」
重衡は母時子の、竜は弥太の顔を思い浮かべて、同時にため息をついた。そして、互いにうなずき合うと、足早に高雄を後にした。
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洛中に入る頃には、日は既に暮れていた。
「すっかり遅くなってしまったな。母上に知れると、また厄介だ……」
深い闇に包まれ始めた人けのない通りを、一路、六波羅へと急ぐ二人の耳に、どこからともなく、澄んだ笛の音が聞こえてきた。
「風流なことだ……」
重衡は皮肉混じりに言い捨てる。が、やがて、五条の橋のたもとまでやって来た所で、急にその音が止むと、訝(いぶか)しげに立ち止まった。
おもむろに橋の上に目を遣ると、一人の巨漢の荒法師が、大長刀(おおなぎなた)を杖に、仁王立ちになっていた。
(もしや……、例の刀盗人か!)
夜毎(よごと)京中を徘徊(はいかい)する悪鬼――。この数ヶ月の間に、一門の内にも太刀を奪われた者は数知れず……。その下手人が山僧崩れの荒法師との報告は、重衡も耳にしており、咄嗟(とっさ)にそれを思い浮かべていた。
しかし、件(くだん)の法師武者と対峙(たいじ)しているのは、どうみても十やそこらの少年である。
水干の上に薄衣(うすぎぬ)を被(かず)き、その下の角髪(みずら)を結った風情などは、一見、どこぞの公卿の子弟のようにも見受けられるものの、それにしては、辺りに従者の姿も見えない。腰には、その童形には不釣合いともいえる、黄金(こがね)造りの立派な太刀を帯びており、何はともあれ、刀盗人にとって、申し分のない獲物に違いなかった。
(童相手に無体(むたい)を致すか!)
重衡が飛び出すより一瞬早く、白刃のきらめきと共に、大長刀が振り下ろされた。ところが、少年は事も無げにこれをかわすと、ひょいと橋の欄干(らんかん)に飛び上がった。
「軽い!」
重衡も思わず声を上げた。
「おのれ! 小癪(こしゃく)な!」
なおも、襲い掛かる荒法師にも、少年は宙を舞うような軽やかな身のこなしで、これを鮮やかに交わして行く。
あたかも蝶の如きとらえ所のなさ――。
しかし、息もつかせぬ攻防と思いきや、実際は、法師が一方的に打ちかかっているにもかかわらず、ことごとく空を切る刃は、水干の袖をかすめることすらできない。
それどころか、法師の動きが、目に見えて散漫になっていた。これでは、腰の太刀を抜くまでもなく、既に趨勢(すうせい)は明らかであった。
不意に被衣(かずき)が虚空を舞い、それが覆い被さるのが目くらましになったか、法師は息も絶え絶えに、橋の上に倒れ込んだ。
少年の方は、まるで息を乱した様子もなく、涼しげにそれを眺めていたが、やがて、振り返りざまに、じっと様子を伺っていた重衡の姿を認めると、しばし、これを凝視した。
月光に浮かび上がったその面に、重衡はハッとして息を飲んだ。
(……女子(おなご)か?)
上臈(じょうろう)と見まごうほどの艶(なまめ)かしさ――。それは、つい先ほどまでの、刃に少しも恐れを見せぬ大胆さとは、まるで相容れぬ様相であった。
夢か現か……。その幻惑の毒牙に捕えられたか、重衡は身じろぎ一つできず、呆然と立ち尽くしていた。
が、程なく、月明かりが雲に飲み込まれるや、少年の姿もまた、おぼろげとなり、後はただ、漆黒の闇を突き抜けるような笛の音の響きが、次第に遠ざかって行くのを認めるばかりだった。
「……いったい、何者なのだ?」
重衡は引き寄せられるように、橋へと歩み寄った。と、その時、ようやく正気づいた荒法師が、突如として、立ち上がった。
「お待ち下され! 遮那王(しゃなおう)殿とやら……」
そう叫ぶと、あまりの慌てぶりに、足をもつれさせながら、転げるようにして少年の後を追って行った。
「遮那王……。あれが鞍馬の!」
重衡の当惑が、瞬時に狼狽(ろうばい)へと変わる。
「……知っているのか?」
重衡の凍りついた横顔を見て、竜は怪訝に問い掛けた。
「……ああ。我ら平家一門とは、とりわけ深い因縁のある者だからな……」
得体の知れない恐怖に、重衡は身を強張らせていた。
(鞍馬の……、遮那王……)
竜もまた、この時、何か、心に強く響くものを感じていた。しかし、その本当の意味を知るのは、いま少し後のことになる。
そもそも、この遮那王なる童児は、清盛のかつての宿敵――源義朝(みなもとの・よしとも)の子であった。
時を遡(さかのぼ)ること11年前――。政権争いの波及で起きた平治の乱において、清盛率いる官軍に敗れた義朝は、敗走の途上に非業の死を遂げた。
そして、当時、生まれて間もない乳飲み子は、母常磐(ときわ)の腕に抱かれ、二人の兄と共に、清盛の前に突き出されたのだが、常磐の必死の命乞いによって、僧籍に下ることを条件に助命され、その後、鞍馬寺に預けられたという話だった。
その常磐は一頃清盛の寵を受け、娘を一人儲(もう)けている。重衡は母時子が『常磐はその美貌を武器に父清盛を弄落(ろうらく)した』と嘆いているのを耳にしたことがあった。
しかし、その常磐も、今は重衡には異母妹、遮那王には異父妹に当る娘を連れて、一条大蔵卿 藤原長成(ふじわらの・ながなり)の後添えとなっており、そうした意趣(いしゅ)めいた感傷も、今は昔とばかりに、もはや忘れ去られようとしていた。
重衡は尚も、じっと、遮那王の消えた闇を見つめていた。
時勢の流れが、ほんの少し違っていれば……、今の互いの立場は、逆になっていたかもしれない……。一抹、そんな思いが、胸をよぎっていた。
しかし、これから十数年後――、まさしく逆転した立場で、向き合うことになろうとは……、この時の重衡には、全く思いもよらぬことであった。
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( 2003 / 09 / 30 ) |
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