合わせ鏡の悲哀 (五) | ||||||
竜たちが鳥羽の津より淀川を下ったのは、10日も前のことだったが、なおもまだ、江口(えぐち)の宿(しゅく)に留まっていた。
突然の筑紫下向で、船の漕ぎ手を集めるのにひどく手間取り、思いがけず長居をしたものの、弥太の奔走の甲斐あって、ようやく、明朝、船出できることになった。 「明日は、いよいよ瀬戸内だな。当分、都ともおさらばか……」 日暮れ時の薄闇に、ぼんやりと浮かぶ宿場町の灯りを、弥太は、名残り惜しそうに眺めていた。 「おい、竜。今夜は最後の夜だ。一丁、繰り出してみるか?」 陽気に誘う弥太にも、竜は静かに首を横に振る。 「俺に構わず、弥太は楽しんで来いよ」 竜には、弥太の気遣いが、何となく重荷だった。 「じゃあ……、ちょいと行って来るか……」 気乗りのしない口振りとは裏腹に、弥太は、どこかいそいそとした様子で、身繕いを始めた。 京と筑紫の行き交いには、必ず立ち寄るこの江口の宿には、弥太の馴染みの女がいることは、竜もよくよく承知のことだった。 「夜更けまでには戻ってくる。後は頼んだぞ。じいさんは留守番にならねえからな」 「ああ……」 弥太は、なおも竜のことを気に掛けつつ、船を下りて行った。 方々の遊女屋から、笛や鼓の賑やかな囃子(はやし)が聞えて来る。しかし、それをもってしても、今の竜の、深く沈んだ心を浮き立たせることはできなかった。 といっても、別段、悲しいというわけでもない。ただ、胸の中に、何かポッカリと穴が空いて、そこを、ひゅうひゅうと、風が吹き抜けて行く……、そんな言いようのない虚無感に襲われ、立ち上がることも、横になることさえも、どうも億劫(おっくう)だった。 「……おまえ一人か?」 ふいに、寿老が酒を片手に、船倉から上がって来た。 「弥太は、陸(おか)に羽を伸ばしに行ったよ」 寿老はその場に、どっかと腰を下ろした。 「で、おまえは行かなかったのか?」 「そんな気には、なれなくてな……」 「何じゃ? いい若い者が……。惚れた女を忘れるには、別の女に惚れるのが一番の早道だ。たとえ、それが、仮初めのものだとしてもな……」 竜は、相槌(あいづち)を打つでもなく、ぼんやりとした目を寿老に向けていた。 「まあ、ここの女どもは、少しばかり、図々しいところがあるからな……。おまえがその気にならんのも、わからんではないが……。しかし、女のあしらいも、男の器量のうちだぞ……」 「そういう寿老はどうなんだよ……」 「そりゃあ……、わしも、若い頃は、女どもがまとわりついて、離れなかったものだ……。泣かせた女も両手で足りんぞ……」 寿老のいつもの大口に、竜も心持ち微笑を浮かべた。 「信じとらんな?」 「いや……」 「まあ、いい。おまえにこんな話をしてもしょうがない……」 寿老はかわらけに酒を注ぐと、竜に差し出した。 「飲め」 「……いいよ」 「いいから飲め!」 珍しく無理強いする寿老に、竜は仕方なく受け取ると、一気に飲み干した。 「いい飲みっぷりだ……」 ニ献目を注がれる前に、竜は、かわらけを寿老に突き返した。 「それにしても……、よく思い切ったな」 寿老のしみじみとしたつぶやきに、竜は戸惑いを見せつつうつむいた。 「本当のところは……、今もよくわからない……。茜を……、姫君を大切に思う気持ちが、それが恋なのかどうか……。ましてや、あの姫君が、この俺に恋をしているなど……、どうにも信じられない……」 「そんなものに理屈などあるものか……。相手が、龍でも蛇でも亀でも……、恋に落ちる時は落ちる……、そういうものだ……」 寿老の妙な例え話に、竜は力ないため息をついた。 「人は見せ掛けだけなら、いくつもの恋をすることはできる……。そして、跡形もなく忘れ去ることもな……」 「……」 「だが、真の恋というやつは、そうそうあるものではない。おまけに、そいつは、忘れようとしても、どうにも忘れられぬものでな……、そこが厄介なところだ。お頭を見ていればわかる……」 「……えっ?」 唐突な話に、竜は目を見張った。 「昔、おまえと同じようなことがあってのう……。それで、叶うことのなかった恋を、未だに引きずっておる……。それだけに、此度のことでは、おまえの気持ちが誰よりもわかって、つらかったはずだ……」 「……頭が?」 あの玄武に、そうした過去があったとは……、竜には、まるで、想像もできなかった。 「ああ見えて、不器用な男だ……」 言いながら、寿老はまた、かわらけに口をつける。 「寿老は、頭のことは何でも知っているのだな……」 「そりゃあ、お頭が、商いを始める前からの付き合いだからな……」 これまで知りたいと思いながら、なぜか、聞くことはためらわれた、玄武という人物の素顔――。しかし、今の寿老の言動に、竜はふと、その興味を強く掻き立てられていた。 「頭が……、侍だったという話は、本当なのか?」 寿老の目が、一瞬鋭く光った。 「……誰に聞いた?」 「吉次が……、前にそんなことを言っていた……」 「あの軽口が……、余計なことを……」 寿老は軽く舌打ちした。 (やはり、聞いてはいけないことだったのだろうか……) 後悔と不安の入り混じる竜の顔を見て、寿老は宥(なだ)めるような目をして、静かに続けた。 「お頭は……、院の御所を守護する北面(ほくめん)の侍だった、それは真のことだ。だが、それ以上のことは、わしの口からは言えん。どうしても知りたければ……、後は、お頭に直接聞け」 「寿老……」 「おまえになら、いつか真のことを話すだろう……。なぜ侍を捨て、商人として生きることになったか……」 それだけ言うと、寿老はまた酒を抱えて、よろよろと船倉へ降りて行った。 一人になると、途端に、そこはかともない気だるさに襲われ、竜は、それに引きずり込まれるように、そのまま仰向けに寝転がった。 京を離れる夜は、何かしら淋しさを覚えるのは、常のことながら、今夜はことさら身にしみる。 (もう二度と、京に戻ることはないのだろうか……。重衡や茜に会うことも……) そんな想いが、胸に重くのしかかり、竜を息苦しくさせていた。 『己の大事に思うものを、ことごとく失う定め……』 文覚の声が、耳鳴りのように頭に響いた。 自分には失うものなど、何一つないと思っていたものを……、いつの間にか、生み出されていた恋心という名の産物――。無から次々に作り出される欲望が、決して、自分と無縁のものでなかったと……、そうどこかで安堵する思いの一方で、それを、芽生えたそばから、蕾(つぼみ)のままに摘み取って行った青龍の紋章の宿命に、竜は、その腕の紋を消し去りたい衝動に駆られた。 今も目を閉じれば、浮かぶのは、茜のたなおやかな面影――。こんなにも人に対して、いとおしいという感情を抱いたことが、これまであったろうか……。 あの日、この腕に触れた白く細い指は、春の陽だまりのような温かさで、竜の心の奥底に潜む、深い悲しみをも包み込んでいた。 (茜……) 恋心を自覚すればするほどに、たとえようもない大切なものを失ったのではないか……、そんな怖れが、今また、竜の心を激しく揺り動かしていた。 しかし、己の身の上を思えば、いかに手を伸ばそうとも届かない……、いや、決して触れることの許されない、見果てぬ夢……と思い切るより他ない……、それが、目の前にある現実だった。 『おまえが、いかに目を背けようとも、この青龍はこれからも、容赦なく過酷な試練を与えるであろう……。それに耐えて行けるか!』 虚空(こくう)に響く、さらなる文覚の問い掛けに、竜は、もはや答えを返す気力もなかった。 おもむろに、翡翠(ひすい)の玉を取り出してみた。月明かりに照らされ、妖しい光を放つこの玉は、竜が、筑紫に流れ着いた時に持っていた、ただ一つの物だった。 (あの頃の俺に、戻っただけだ……) 翠(みどり)の光を見つめて、竜は何度も、そう心に強く言い聞かせる。 何もなかった、玄武に出会ったばかりの……、あの、名も無き漂流者に……。 | ||||||
【 第1章 完 】 | ||||||
( 2003 / 12 / 26 ) | ||||||
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