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竜と隼人は、しばらくそのまま、巫(かんなぎ)の老女佐古(さこ)の許に、身を寄せることとなった。
隼人は骨折に加え、そもそもの、海に突き落とされた理由が理由だけに、心身ともに、ひどく衰弱しており、とても、今すぐ、この島を出ることのできる状態ではなかった。
そこで、竜はやむなく、筑紫へ戻ることはひとまず棚上げにして、隼人の面倒を見ながら、島の男達と共に海に出て、漁の手伝いをすることにしたのである。
海に囲まれた小さな島にあって、そこに住む民の暮らしを支えるものは、わずかばかりの田畑と、大いなる海がもたらす鮑(あわの)を始めとした魚貝の産物であった。漁など竜には初めての経験だったが、潮の流れを読み、巧みに舟を操る技が、思いのほか、役に立つことになった。
「この島では、婆様の言うことは、何があっても絶対なのよ」
佐古の縁者という若い娘沙希(さき)は、得意げにそう言ったが、果たしてその通り、神に仕える巫である佐古の言葉は、まさしく、神の言葉と信じられており、初めは、竜達をよそ者と敵視していた島の者達も、その一喝で、忽(たちま)ち警戒心を解いたのである。
言葉を交わすようになれば、わだかまりなど、立ち所に、どこかへ消えてしまっていた。それどころか、いつしか、同じ海に生きる者同士の、不思議な連帯感すら生まれ、あのおっかなかった髭面(ひげづら)の長―― 匡(ただす)さえも、竜の舟を操る技量を認め、自ずと、二人は、気さくに語り合う仲になっていた。
「だいぶん、ここの暮らしにも慣れて来たようだな」
「ああ、みんな良くしてくれるからな。最初はどうなることかと思ったが……」
言われて、匡はばつの悪そうな顔をした。
「それを申すな……。こんな所に流れて来るやつも、珍しいゆえ、つい、こちらも身構えてしまってな……」
「わかっている」
必死の釈明をする匡に、竜も理解を示した。
ところで、この匡という男、本を糺(ただ)せば、松浦本家の流れをくむ、れっきとした武士の家系なのだが、その一族は、長年の土着生活の中で、すっかりこの島に根を降ろし、代々、島長として、領民達の信頼も厚い。
匡はその厳(いかめ)しい面相のわりには、意外に年若く、また、根は情の深い、気の良い男でもあった。
平素は、漁の陣頭にも率先して立ち、これに加わりたいという竜の申し出に、一も二もなく許しを与えたのも、匡の独断に他ならなかった。
「それにしても、おまえが手伝ってくれて、こっちは大助かりだ」
「そうか? 邪魔をしていないなら、よかった……」
「何を言う! おまえに舟を任せておけば、わしらも安心して漁に精を出せるからな……」
匡は、控えめで、それでいて、周りへの気遣いも忘れない竜をすっかり気に入り、信頼もしていた。竜もまた、不器用なほど飾らない匡の人柄に、好感を抱くようになっていた。
「ここはいい所だな。海も穏やかで、人に優しい……」
「海が優しい……? おもしろいことを言うやつだな……」
匡は、髭面をくしゃくしゃにして笑う。
「確かに、この海は、わしらに多くの恵みをもたらしてくれる。何せ、天子様の御厨(みくりや)なのだからな」
「天子様の……御厨?」
竜には、聞き慣れない言葉だった。
「ああ。この海で獲れた魚貝は、贄(にえ)として京に運ばれ、天子様に献上される。松浦の民は、それを誇りに、毎日漁に精を出しているのだ」
相槌(あいづち)を打ちながら、竜は少し複雑な思いだった。
天子――つまり、帝への献上となれば、それはすなわち、その妃である中宮のもとに送られるのも同然である。こうして、わずかながら、漁の手伝いをすることで、形は違えど、今なお、茜との縁(えにし)が繋がっていることに、竜は深い感慨を覚えずにはいられなかった。
「ところで……、おまえの相棒は、どんな様子だ?」
匡は、急に黙り込んだ竜を怪訝に思いつつ、話を隼人のことに向けた。
「……ああ。少しずつだが、良くなって来ているみたいだ……。歩けるようになるには、まだまだかかるだろうが……」
そう答えながら、なおも冴えない竜の表情には、匡もいささか察するものがあった。
「沙希のやつが、えらく心配しておったぞ……。おまえにひどい口ばかりきくとな……」
隼人と竜の間は、相変わらず、ぎくしゃくしたままだった。
足の自由がきかない苛立ちから、隼人は朝な夕な竜に当り散らし、竜もそんな隼人に、どう接していいかわからず、途方に暮れるばかりの毎日である。
「隼人も普通の状態ではないし……、仕方がないさ……。それに、俺も別に気にしてはいないし……」
努めて明るく答える竜に、匡は腕組みして、小さく唸(うな)った。
「まあ、おまえがそう言うのであれば、わしには何も言えぬが……」
「沙希殿がいてくれて、本当に助かっている。匡には、迷惑な話だと思うが……」
今の竜にとって、匡らの存在は、大きな心の拠(よ)り所だった。
「何、あいつが好きで世話を焼いておるのだ。我が妹ながら、あの跳ねっ返りには手が負えぬでな。あれに付きまとわれては、隼人の方が、さぞや、閉口しておろうがな……」
そう言って、豪快に笑い飛ばす匡にも、竜はただ、曖昧な微笑を返すだけだった。
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「また、こんなに残して……。きちんと食べなきゃ、治るものも治らないわよ!」
沙希はそう言って、膳にはほとんど手をつけずに、横になったままの隼人の顔をのぞき込んだ。
「毎日じっとしていて、腹が空くわけがないだろう!」
隼人は投げやりに答えて、寝返りを打つ。
「せっかく、竜が隼人にって、持って帰って来たのに……」
「誰があいつの世話になどなるものか!」
例によって、すぐに癇癪(かんしゃく)を起こす隼人に、
「もう十分世話になっているくせに……」
沙希は呆れ顔でつぶやいた。
「ねえ、隼人。どうして、竜をそんなに嫌うの?」
「うるさい! 嫌いなものは、嫌いなんだ!」
これまた、いつものように、つっけんどんに、答えるだけの隼人に、
「竜も馬鹿ね……。あんたなんかを助けようとして、危うく、自分も命を落すところだったんだから……」
「何だと!」
沙希の足蹴(あしげ)ざまな言い様に、隼人はカチンときて、半身を起こした。
「だってそうでしょう? 命の恩人に、一言のお礼も言ってないじゃない!」
「誰も、助けてくれと頼んだ憶えはない! あいつが勝手にしたことだ!」
と、隼人は、腹立ち紛れに吐き捨てた。
「竜が、どれだけ、あんたのことを心配していると思ってるの!」
「……」
「普通はできないことよ。兄さんも呆れてたわ……。一人でさっさと筑紫に戻ればいいのに、あんたのことを放っておけないからって、ここに残ったんじゃない。おまけに、ただ世話になるのは申し訳ないって、漁の手伝いをして、あんたの分まで働いてるのよ。なのに、その言い草はないでしょう!」
沙希は向きになって、隼人に詰め寄った。
「それが、大きなお世話なんだよ! いつ、俺がそんなことを頼んだ? 押し付けがましいにも、程がある!」
「……」
「俺がいてそんなに迷惑なら、海に放り込むなり、山に打ち捨ててくれるなり、好きにしてくれ!」
「隼人……」
「その方が、俺もせいせいする! どうせ生きていたって、仕様のない人間なんだ……。いっそ、死んじまった方がどれだけ楽か……」
そう言い放って、また、すぐに横になった隼人だったが、それっきり、すっかりおとなしくなった沙希が気に掛り、おもむろに見返した。と、その顔を見て、ギョッとした。沙希は、目にいっぱい涙をためていた。
「どうして、そんな悲しいことを言うの? 死んだ方がましだなんて……。せっかく、助かったっていうのに……」
返す言葉のない隼人は、沙希のすすり泣く声に、柄にもなく、しおらしい気分になっていた。
「海に放り込んでは、魚が迷惑する……」
ふいに、佐古が姿を現した。
「婆様……」
沙希は慌てて涙を拭い、隼人の傍らから退く。
神の声の代弁者である佐古には、その場の空気を一変させるほどの、何とも言えない威厳があった。同時に、その鋭い目の光は、人の心を巧みに読み取る力をも感じさせた。そして今、その佐古の眼差しは、じっと隼人に向けられていた。
「おまえ……、何ぞ、竜に負い目でもあるのではないのか?」
佐古の言葉に、隼人は明らかな動揺を示して、すぐさま顔を背けた。
「負い目って……、そりゃあ、命を助けてもらったんですものね」
と、軽くあてこする沙希にも、
「いや……、もっと深い業(ごう)が見える……。おまえの心の奥底に渦巻く、後ろ暗い猜疑(さいぎ)の炎が……」
「うるさい!」
そう怒鳴ったきり、ふて寝を決め込んだ隼人を見て、佐古は、沙希に席をはずすよう促した。
「それほどに苦しいか?」
二人きりになったことを確認すると、佐古は再び口を開いた。
「あの者の優しさは、心にやましさを持つものには、あまりにまぶしすぎる……。素直に受け入れることのできぬのも、道理やもしれぬ」
「……」
「しかし、だからと申して、いかに目を逸らしたとて、逃げおおせるものでもない。いや、むしろ逃げれば、それだけ、おまえの中の呵責(かしゃく)の念は、いっそう重さを増すばかりじゃ……」
背を向けたままの隼人に構わず、佐古は独り言のように、淡々と続けた。
「隼人よ……。その業と、しかと、向き合う勇気を持てぬ限り……、おまえは一生救われぬぞ!」
それだけ言い置いて、程なく、佐古も出て行った。そして、一人取り残された隼人の胸には、佐古の残した冷たい響きが、いつまでも、こだまし続けていた。
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