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「やっぱり、ここにいたんだ……」
沙希の声に、竜は驚いて振り返った。
「竜のお気に入りの場所だものね……」
夕暮れ時、どんなに疲れていても、白い砂浜の上に腰を下ろし、水平線の向こうに沈み行く夕日を眺めるのが、いつしか竜の日課となっていた。
「何を考えていたの?」
同じように、隣に腰を下ろした沙希が、ふいに尋ねる。
「いろいろとな……」
「筑紫に帰りたい?」
「……」
「筑紫には、待っている人達がいるのでしょう?」
そう問われると、竜は少し困ったような顔をして、やがて、目を伏せた。
「帰りたい……。だが、帰るのは怖い……」
「……怖い?」
沙希は、竜の返事に首をかしげる。
「俺は、日本という国から逃げ出したくて……、だから、宋に行こうとしたんだ……」
「……逃げる? どうして?」
「いろいろあったのさ……」
そう言って、竜は答えをはぐらかした。
今、こうしていても、茜の面影が瞼(まぶた)に焼きついて離れない。忘れようとすればするほど募る想い―― それは、筑紫にいた頃よりも、さらに、強くなっているようにすら感じられた。
忘れるために出たはずの旅が、却って、その想いの深さを突きつける……。この皮肉なまでの、めぐり合わせには、竜も思わず苦笑するほどだった。
「結局、宋に行くことはできなかった……。けど、本当に俺が行きたかったのは、どこだったのか……、何だかわからなくなってしまった……」
「竜……」
「俺は、いつも居場所を探している。流れ者のこの身が、本当にいるべき場所――。筑紫にいても、京に上っても……、ここがそうだと、どうしても確信が持てなかった……。そして、今も……」
苦悩に揺れる竜の心情が、沙希の胸にも切なく迫った。
「私にはよくわからないけど……、そういうこともあるわよね。いいじゃない。それがわかるまで、ここにいれば……。誰も、出て行けとは言わないわ」
「……」
「竜の本当にいるべき場所――。その答えは、きっと、この海が教えてくれる……」
沙希の言葉に勇気付けられて、竜もようやく静かに顔を上げた。
「そうだな……。嵐の中をやみくもに進もうとしても、ただ流されるだけだ。今は、嵐が過ぎ去るのを待つ……、そういう時なのかもしれない……」
それを聞いて、沙希も笑ってうなずいた。
「無理に考えるのはよすよ。隼人の足が良くなるまでは、どのみち、ここを動くこともできないんだし……」
そう言って笑い返す竜に、沙希はふと、ある疑問を投げ掛けてみたくなった。
「竜は……、どうして、あんな恩知らずを助けようとしたの?」
唐突な問い掛けに、竜も首をかしげる。
「自分も死ぬかもしれないって、思わなかったの? 嵐の海に飛び込むなんて……」
あの夜の出来事を思い返し、竜は、急にまた顔を曇らせた。
「隼人は……、無理やり海に投げ込まれたんだ……。嵐を鎮(しず)める生贄(いけにえ)だと言われて……」
「そんな……」
「嵐で、皆、気が動転していたんだ……。荒れ狂う海の上で、生きるか死ぬか……、そんなぎりぎりの瀬戸際まで追い詰められて、それでも、自分だけは何としても助かりたい……、そういう執念みたいなものが、皆の心を鬼に変えてしまっていた……」
ぽつりぽつりとつぶやく竜に、沙希は信じられない思いで、それを聞いていた。
「俺は何もできなかった……。隼人が海に投げ込まれた時も、黙ってそれを見ていることしかできなくて……」
「……」
「もっと早く気づいていれば……、止めることもできたのかもしれない。そうすれば、あんなけがをすることもなかったはずだ……」
「竜……」
「今、一番苦しいのは、他の誰でもない、隼人自身なんだ。心の傷もそうだが、身体の自由がきかないつらさなんて、当の本人にしかわかりはしないからな。もし俺が隼人の立場なら、やっぱり耐えられないと思う……」
沙希はうなずきつつも、なおも反論した。
「それにしたって……、どんな理由があったとしても、やっぱり、隼人の態度は許せないわ。竜の気遣いにも、少しも恩に着ていないし……」
「別に、恩に着せるつもりなんてないさ……。俺は、ただ……、隼人が元通り元気になってくれれば、それでいい……」
と答えるだけの竜を、沙希は、不思議そうな顔で見詰める。
「どうして、そんなに隼人のために親身になれるの?」
「……」
「赤の他人なのでしょう? それなのに……、どうして、そこまで……」
竜は、見る間に、物悲しげな翳りに覆われた瞳を沙希に向けたかと思うと、そのまま、再び、海の彼方へと目を馳(は)せた。
「昔の自分を……、思い出すからかな?」
遠い目をしてつぶやく竜に、沙希は当惑するばかりだった。
「人を信じられず、殻に閉じ籠(こも)って、自分の運命を呪っていた……」
「……」
「ずっと、助けを求めていた……。そんなふうにしか、考えられない自分が、どうにも嫌で……」
「竜……」
「隼人を見ていると、あの頃の俺の姿を、見ているような気がしてならないんだ……。あいつも、今、必死に、助けを求めているんじゃないかと……。俺には、助けてくれる人が現れた。けど、あいつは……」
そこまで聞いて、沙希もようやく得心が入ったのか、
「竜は、隼人の心を助けたいと思っているのね……」
「そうできればと、思っている……。無理かもしれないが……」
ふと、弱気な一面ものぞかせる竜に、沙希は懸命に首を横に振る。
「竜にならできるわ、きっと……。そこまで、隼人の気持ちがわかっているのですもの……。いくらあいつでも、そのうち気がつくわよ」
「沙希……」
「もし、わからないようだったら……、その時は、もう一度、嵐の海に放り込んでやればいいんだわ。婆様は、魚が迷惑するって言ってたけど……」
沙希が笑ってそう言うと、竜もつられて、笑顔を見せた。
「そう言えば……、婆様が変なことを言っていたわ。隼人は、竜に何か負い目があるんじゃないかって……」
「……負い目?」
「ええ……。てっきり、嵐で助けられたことだと思ったら、婆様が言うには『もっと深い業(ごう)が……』ですって。でも、それを聞いて、急に隼人が顔色を変えたのは確かよ。何か、心当りはない?」
「いや……。隼人とは、宋に向かう船で、初めて会ったのだから……」
振り返ってみても、特に思い当ることなど何もない。
楊孫徳の船に乗り合わせ、五日と経たぬ間に、あの嵐に遭遇して……。そもそも、口をきいたのも、嵐の直前の遣り取りが、最初だった。その間に、負い目だの、何だのというようなことがあったとも思えない。
「そう……。まあ、婆様の思い違いってこともあるわね……」
沙希は、そう言葉を濁したが、竜には、あの佐古が、的外れなことを言うとも、思えなかった。
よくよく考えてみると、初めて会った時から、隼人の自分に対する態度は、どこかしら、他の者に対するそれとは違っていなかったか……? 何か物言いたげな視線が、幾度となく、投げかけられていたような……。
しかし、どれほど思い巡らせてみても、そこから先へは、どうしても考えが及ばない。
(やはり、俺には無理なのだろうか……)
ふと、玄武の顔が、思い浮かんだ。こんな時、玄武なら何と言うだろうか……。そんなことを考えてみる。
あの嵐の夜から、既に二月余りが経とうとしていた。楊孫徳の船が無事であったかどうかは定かでないが、仮に、筑紫の港に戻っていれば、桔梗がどれほど案じているだろう……。さらには、その桔梗から玄武にも、当然、知らせは行っているに違いない。そう思うと、ひどく気が急(せ)いた。が、さりとて、こんな状態のまま、隼人を残して、一人、筑紫に戻ろうという気にはとてもなれない。
この時の竜には、自分を案じているであろう人々に、心の中で手を合わせながらも、なお、この最果ての島に留まることを選ぶより他に、道はなかったのである。
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