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それぞれの思いが当てどなく錯綜する中、それでも、時だけは瞬く間に過ぎ、ここ西海の孤島でも、季節は夏から秋へと、確実に移り変わりつつあった。
この頃には、隼人の足も順調に回復して、どうにか伝い歩きができるまでになっていた。また、沙希が間に入って、島の者達とも、少しずつだが、交わりを持つようにもなり、そのおかげか、隼人の表情にも、時折、穏やかな明るさが宿るようにもなっていた。
が、こと竜に対しては、これまでの頑なな姿勢を崩すことはなく、二人の間の溝も、依然として、埋まらぬままであった。
今日も、隼人は沙希の肩を借りて、社の中庭を懸命に歩いていた。漁から戻って、その様子をぼんやりと眺めながら、一人考えに耽(ふけ)っていた竜は、背後に立ちはだかる気配を察して、すぐさま我に返った。
「そろそろ、心を決めねばならぬな……」
竜はまたも、己が心を見透かされたことに、内心驚きながらも、それを表情に出すことはなかった。
「わかっている……。しかし……」
「隼人のことか?」
「……」
「あの者ならば、もう大丈夫だ……。おまえの気持ちは、言葉にせずとも、よくわかっていよう。初めて、この島にやって来た頃を思えば、まるで見違えるようじゃ……」
そう言って、佐古は、思い惑う竜と向き合った。
「隼人を逃げ場にするではない!」
厳しい叱責に、竜は絶句する。
「己の道は、己自身が決める他ないのだぞ。隼人のためなどと申して、実の所は、己が定めと向き合うことを避けておるだけであろう?」
その強い眼差しに見据えられて、竜は自らの心の揺れを、隠すことはできなかった。
「おまえは、ここで漁夫(いさりお)として、生涯を終える者ではない。なすべきこと、そして、帰るべき場所がある……」
佐古の一言一言が、竜の、心の奥底に押し込めたはずの想いを、一気に、呼び覚まして行く。
「帰りたい……、筑紫に……。頭、桔梗……、俺にとってかけがえのない、みんなの許へ……。だが……」
言いながら、竜は、腕の紋をきつく握り締めた。
「俺には重すぎる……。次に、どんな試練が待ち受けているのか……。それに耐える自信がない……」
そうつぶやいて、力なくうなだれる竜に、佐古の眼差しも、俄かに、温かみを帯びたものに変わっていた。
「竜……。この島での穏やかな暮らしは、なるほど、おまえの心を癒すことはできよう……。じゃが……、今に耐えられなくなる」
「……」
「おまえは、何かを追い求めている時にこそ、確かな生の実感を得ることができる。試練を恐れながら……、その実、そんな極限の世界でしか生きられぬのだ……」
その言葉は、竜の胸に、鋭く突き刺さった。近頃、抱き始めていた思い――、それを的確に言い当てられていたのだから……。
事実、海に出て魚貝を採り、山に分け入り田畑を耕すだけの平穏無事な日々は、次第に、竜に焦りを与えるようになっていた。
(こんなことをしていて、いいのか?)
何度自問したことか……。その度に、隼人を引き合いに出して、その苛立ちをごまかしていたと言ってもよかった。
「おまえの安息の場所は、激動の嵐の中にこそある。そこから逃れたとて……、何も得るものはない」
「……」
「今が良い潮時なのじゃ……。冬が来る前に……」
ようやく覚悟の定まった思いの竜は、黙ってこれにうなずいた。
(もう自分をごまかすのはやめよう……。いかに逃げようとも、決して、逃げ切れぬ宿命……。ならば、甘んじて、それを受け入れるしかない……)
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その夜、竜は隼人に島を離れることを告げた。
「隼人は好きにすればいい……。筑紫に戻りたければ、一緒に来ればいい。ここに残りたければ、それでもいい。おまえが自分で選ぶことだ……」
隼人は突然のことに、困惑しながらも、その心は既に決まっているようだった。
「俺は……、ここに残る……」
竜自身も、予期していた答えだった。近頃の隼人の様子からすれば、きっと、そう言うだろうと思っていた。
「そうか……。わかった……」
竜は一抹の淋しさを感じつつも、快く、これに同意した。
「一日も早く、足が元通りになることを祈っている……。最後まで付き合ってやれなくて、申し訳ない……」
「……」
「けど、短い間だったが……、隼人に出会えて良かった……。今、俺は心からそう思っている……」
そう言って、笑顔を向ける竜に、どうしたことか、隼人はひどくうろたえていた。
「なぜだ……」
「……」
「なぜ、おまえは、いつもそんなふうに笑っていられるんだ!」
肩を震わせ、声を荒げる隼人を、竜は訝(いぶか)った。
「俺は……、おまえに、散々な態度を取って来たのに……。なぜ、怒らない! なぜ、そんなに俺に優しくする……」
そう言い捨てて、顔を背けた隼人に、竜は戸惑いを覚えながらも、穏やかな瞳を向けた。
「隼人のことを、信じているからさ……」
「……」
「俺は、一度もおまえのことを、嫌なやつだと思ったことはない……。そりゃあ、強情で、乱暴な口ばかりきくけど……、でも、本当はいいやつなんだって、そう信じられるから……」
隼人は愕然としながらも、次の瞬間には、自虐的な薄ら笑いを浮かべていた。
「俺がどういう人間か……、そいつを知れば、そんな綺麗事など言っていられなくなるさ……」
「……隼人?」
この日の隼人は、明らかに、いつもと様子が違うと、竜も感じていた。
「俺は、ずっと前から、おまえのことは知っていた。もう五年にもなるのに、忘れられず……。いや、忘れるどころか、前にも増して、俺の心を追い詰めて行く……。巫(かんなぎ)の婆の言った通りだ……」
竜には隼人の言わんとしていることが、どうにも見えてこない。
「まだ、わからないのか?」
「……」
「五年前のあの日、仏像を盗んだのは……、この俺だ!」
隼人の告白に、竜は呆然となった。
俄かに蘇ってくる凄惨な記憶――。盗みの疑いをかけられ、袋叩きに遭って……。人を人とも思わぬ理不尽な責め苦で受けた悲しみは、今なお、竜の心の奥深くに残っていた。
「おまえに死にも等しい屈辱を与えた……。その俺を、おまえは許すことができるのか!」
竜の思考は、すっかり麻痺して、とても、言い返す所ではなかった。
「あの時、俺は……、おまえがひどい目に遭っているのも、見て見ぬ振りをして、やり過ごした。捕まれば俺も同じ目に遭わされる……、怖かったんだ……」
「……」
「物心ついた頃から、親も兄弟もない孤児(みなしご)で、その日のねぐらも、食う物もない惨めな毎日だった。通りすがりの男に、金目のものを持ってくれば、たらふく食わしてやると言われて……、つい、それに乗っちまった……。今にして思えば、ほんの一時の、夢でしかなかったのにな……」
「隼人……」
「五年が経って、忘れかけていたのが……、思いがけず、同じ船に乗り合わせた……。俺は、あの時の復讐をされたような気がした。おまえは、見違えるように、立派なご身分になっていたからな……。妬(ねた)ましかったよ……。もし、あの時捕まっていたのが、俺だったら……。自分のやったことを棚に上げて、そんな馬鹿なことを考えもした……」
体のいい逆恨みだった。が、そんな隼人の気持ちも、竜には、よくわかるような気がした。
竜にしても、あんな目に遭ったればこそ、玄武にめぐり合うことができたのではないか……。あるいは、この隼人に差し伸べられるべき手を、自分が奪ってしまったのかもしれない……。そんな思いが頭をよぎり、とても隼人を責める気にはなれなかった。
「俺は……、そういう情けないやつなんだ……。おまえの慈悲に縋(すが)る価値もない……」
「……」
「一人で生きてきた……。誰にも頼らず、誰からも頼られずに……。信じられるのは俺自身だけと……、ずっと、そう思っていた……。だから……」
声を詰まらせた隼人の目には、いつしか、涙があふれていた。
「隼人……」
「まさか、助けてもらえるとは、思わなかった……。俺なんかのことを命懸けで……。そんな馬鹿なやつ、この世にいるわけないと思っていたんだ……」
うつむいた隼人の膝は、止めど無くこぼれ落ちる涙で、見る間にびっしょりと濡れていた。
「隼人……、もういい。おまえの気持ちは、よくわかったから……」
竜はたまらず、隼人の手をとり、何度もうなずいた。
「もう過ぎたことだ……。俺は今もこうして生きている。それに、あのことがあって、玄武の頭とめぐり会えたのも事実だ……。誰かを恨みに思う気持ちなど、とうに、どこかへ消えてしまっている……」
「竜……」
「だから……、もう何も言うな……」
そう言って、向けられた竜の笑顔が、隼人には神々(こうごう)しいまでに、まぶしく見えた。
「今ならよくわかる……。玄武の頭は、おまえだから引き取ったんだ……。もし、俺が同じ目に遭っていたとしても、そうはしなかっただろう……。俺みたいな、性根の曲がったやつのことなど、はなから気にも留めなかったろうさ……」
「そんなことはない……」
「いや、そうなんだよ!」
隼人は涙の跡をぬぐおうともせず、竜の目をしかと見返した。
「俺は……、この島で、もう一度生まれ変わりたい……。おまえのように、人を信じて、生きて行きたい……。今、心の底からそう思っているんだ。そして、こんな気持ちにしてくれた、この島と、ここに住むみんなのために、俺も何かしたい……」
隼人の決意に触れ、竜もまた、感極まって、涙がこぼれ落ちそうになった。
「竜、この恩は、一生忘れはしない! おまえのためなら、何だってする。だから……、何か事ある時には、俺のことを必ず思い出してくれ……」
「隼人……」
「その時までには、少しは、頼りになる男になっているから……」
隼人は、涙でグシャグシャになった顔で笑いかけ、竜も涙をこらえ、懸命に笑ってみせた。
かくして、五年という長い歳月を経て、心の奥底に抱え続けてきたしこりを、ようやく、取り除くことができた隼人と竜――。一つ苦境を共に乗り越えたこの二人の間には、新たに、友情という名の強い絆が結び合わされていた。
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