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竜が無事に戻ったことは、程なく、京に到着した弥太から玄武の耳にも届き、その待望の知らせに、誰しもが胸を撫で下ろしたことは言うまでもない。
そして、玄武自ら、寿老を伴って筑紫に赴いたのは、もう年の暮れも間近に迫った頃のことであった。
「全く、心配かけおって……」
冬の寒風吹きすさぶ中での長旅の疲れも見せず、寿老は、竜の顔を見るなり、懇々(こんこん)と説教を始めた。が、例によって酒の酔いでロレツが回らず、次第に何を言っているのかわからないようになっていた。
「もう、そのぐらいにしておいたら?」
ほとほと呆れ果てた様子の桔梗が、酔いつぶれて、正体不明の寿老を奥に抱えて行った。
ようやく開放されて人心地のついた竜は、玄武に勧められるまま、盃を一つ飲み干した。そして、今度は自分が瓶子を手にすると、おずおずと盃に酒を注ぎ入れた。思えば、こうして二人が膝を突き合わせて酒を酌み交わすなど、全く初めてのことである。いささか緊張の面持ちの竜に、玄武は、いつにもまして、温和な表情でこれを眺めていた。
「いろいろあったようだな……」
竜は黙ってうなずいた。
「必ず、生きて戻ると、信じていた……。おまえが、死ぬはずはないと……」
それを聞いて、竜は心底ホッとしたような安堵を浮かべ、ひとまず、瓶子を脇に置いた。
「嵐の海に漂っている間、頭や皆の顔が、次々思い浮かんで……。もう一度会いたい……、その思いが、俺を生かしたのかもしれない……」
「……」
「楊孫徳殿にも言われました。待っている人がいる……、それは、俺がこの五年の間に築いた財産だと……」
「そうか……」
相槌を打ちながら、玄武は無造作に瓶子を手に取り、竜の盃に静かに酒を注ぎ入れた。
「頭に出会って、ここに連れて来られた時から、いつも誰かがそばにいてくれた。それが、どんなに幸せなことだったか……。これまで気づきもしなかったことを……、それを隼人が教えてくれた……」
「そういうおまえも……、隼人に、それを教えてやることができた……。そうだろう?」
玄武に言われて、竜は思わず目を見開いた。
「この世に、本当に一人きりの人間なんていやしない。いつでも、すぐそばに誰かがいる……。孤独だと思うのは、そのことに、気づいていないだけのことだ……。ほんの少しの勇気を持てば、只、道を擦れ違うだけの出会いとて、一生の縁ともなる……」
玄武と竜の出会いも、まさしくそうであった。いわれのない理不尽を受ける者を救い出したのは、縁もゆかりもない、ただの通りすがりの人間だった。そして今や、この二人は、肉親以上の強い絆で結ばれていた。
「おまえはその勇気を持って、隼人という人間の心の扉を叩いた。そして、隼人もそれに応えて、扉を開けた……」
「……」
「簡単なようで、難しいことだ……。それをやってのけることができたのは、おまえ自身が、孤独のつらさを、身をもってよく知っているからだろう。真冬の凍える海の冷たさを知らぬ者に、ほんのわずかな陽だまりの温かさ、有り難さなどわかろうはずはない……」
竜には、その言葉こそ、何よりも温かく感じられた。同時に、玄武もまた、自分以上に孤独でつらい時を乗り越えて来た人間に違いない……。以前から薄々感じていたことだったが、その思いはより確信に近いものになっていた。
「この半年の間に、おまえが経験したことは、決して無駄ではない。人として、一回り大きくなったな……。頼もしい限りだ……」
そう言って、玄武が一気に飲み干すのを見て、竜は再び瓶子を手にした。
「それで……、心の整理はついたのか?」
ふいに、酌をする手が一瞬止まった。
「半年近くもかかったのは、その隼人とかいうやつのためだけではないのだろう?」
じっと見つめる玄武の眼差しに耐えかねるように、竜は瓶子を抱えたままうつむいた。
「あの姫君は、今や中宮様だ……。もはや、二度と……」
「会うことはできない……」
竜は声を押し殺して、そう答えた。
「何度も忘れようとした……。でも、できなかった……。どんなに押し込めても、想いがあふれ出て来てしまう……。いっそ、出会わなければよかったとも思った……。だけど……、あの姫に出会わずにいた方が、俺にとって、もっと不幸だったかもしれない……。今はそう思えるから……、もう、無理に忘れることはやめました。この想いと、一生付き合って行くしかない……」
「……」
「時が経って忘れられたら……、それはそれでいい。でも、もし、忘れられなかったとしても……、後悔だけはしたくない……」
そう告げて、玄武を見返したその瞳に、嘘はなかった。
「後悔……、そうだな……。かくいう俺も、その思い一つで、今日まで生きて来た……」
しみじみとつぶやく玄武の様子に、ふと、何かいつもと違う気配を感じて、竜もいぶかしげに見つめる。
「俺が昔、侍だったという話は、おまえも聞いているだろう?」
唐突な問い掛けに、竜は困惑しながらも、黙ってうなずいた。
「もはや、遠い昔……、一院〈後白河院〉が、丁度、御位に就かれた頃の話になるが……、俺は、院の庁を護る北面に伺候していた。これでも、少しは腕に覚えもあり、当時はまだ、俺達と同じ侍の身分にあった重盛卿とも、轡(くつわ)を並べ、文武共によく競い合ったものだ。それが……、あれは、上西門院様の日吉御幸の警護を仰せつかり、随行した折のことだ。ふとしたことから、一人の女人と出逢うてな……。俺もその人も、その唯一度の出逢いで、互いが忘れられなくなってしまった……。宮仕えの女房と侍の恋――、それから先は……、まあ、世間によくある話の通りだ……」
玄武の突然の昔語りに、竜は驚きつつ、ただ、じっと耳を傾けていた。
「だが、相手が悪かった……。ある日、重盛卿から、その人の置かれる立場を知らされた。清盛公には義理の妹に当たる堂上公家の姫君で、公を始め周囲の者は皆、いずれは帝の許に上げる心積もりでいるのだと……。それゆえ、ここは一つ、潔く身を退いてほしい……、そうせねば命すら危(あや)ういと仰せられてな……」
「……」
「一介の侍に過ぎぬ分際(ぶんざい)で、よもや時の帝と一人の女を争うことになろうとは……、とても現実のこととは思えなかった……。ましてや、この世でただ一人……、そう思い定めたあの人が帝の許に入内する……、そんな姿を見るくらいなら、いっそ、かの人をこの手にかけ、共に死のうとさえ考えた……」
「……」
「そんな時だ。親友の盛遠(もりとお)が、さる人の奥方に恋焦がれる余り、誤って、その人を手にかけてしまったのは……。そして、その友は亡き人の首を抱えて、行方をくらましたのだ」
「……」
「俺には、とても他人事(ひとごと)とは思えなかった……。恋という名の魔物は、時に、人の心を弄(もてあそ)び、狂わせる……。恋心ゆえに、取り返しのつかぬことをしてしまった盛遠の姿は、そのまま、俺自身の未来を暗示しているようにも思われた。俺がしようとしていたことと、盛遠のしたことと、どこが違うと言うのか……。何という傲慢(ごうまん)な! いかなる理由があろうと、人が、人の命を奪ってよい道理など、あろうはずもないものを……」
玄武が初めて見せた激情――、いかなる時も冷静さを失わない男の、心の奥底に隠された内面にふれ、竜はその凄まじいばかりの勢いに、呑み込まれそうになっていた。
「己の心の醜さに気づいた時、俺は、もはや、あの人の前に立つことはできなかった。なれば……、何も告げずに、逃げるように姿をくらましたのだ……」
「……」
「命が惜しかったわけではない……。ただ、もしこの命を落すことになるなら、それを、決して、あの人に知られてはならない……。そうでなければ、あの人もまた、自らの命を絶ってしまうかもしれない……。それほど、一途で、気性の激しい人だった……」
幾年、齢(よわい)を重ねてなお、玄武の心をかくも捕えて離さぬ人――
それは、今上高倉天皇の生母 建春門院滋子、その人に間違いあるまい。
竜は、以前、偶然にも、法住寺殿で拝した女院の姿を思い浮かべていた。美しく華やかなその容貌の下に、淋しげな陰を見たような気がした……。あるいは、今なお、かの人の心の中には、玄武への愛憎が渦巻いているのかもしれない……。そんな思いが、竜の脳裏を、ふとよぎっていた。
「京を離れた俺は、行く宛てもなく、流されるままに、宿から宿を渡り歩いた……。恋を失い、侍を捨てた俺には、本当に何も残らなかった。ただ、野垂れ死ぬのを、待っていたようなものだ……。もし、あの時、寿老に拾われていなければ、とっくに、この世の者ではなくなっていたことだろう……」
「……」
「今の商いも、元々は、寿老のものだった。死ぬ気があるのなら……、その命を自分に預けてみないかと諭(さと)されて……、俺は、ただもう、縋(すが)る思いで、寿老について、一から商いのことを教わった……」
玄武の昔語りは、竜の心を激しく揺さぶった。
どうにもならない力で、引き裂かれた恋――。その想いゆえにさすらい、自分が玄武に助けられたように、玄武もまた、寿老によって救われたのだという……。そのことに、もはや運命としか言いようのない、強い縁(えにし)を感じていた。
「もう、あれから17年にもなる……。どうにか、商人として、身を立てていけるようにもなった……。だが、あの人のことは、一日たりとも、忘れたことはない。忘れずにいることが、せめてもの償いと……、そう固く心に戒めて……」
玄武の胸の内は、竜にも十分すぎるほど理解できた。そして、自分もまた、忘れ得ぬ人――茜の面影を、生涯抱き続けて、生きて行くしかないのだと……、そう悟った瞬間でもあった。
「しかし、俺は間違っていたのかもしれん……」
竜は咄嗟に玄武の顔を見上げた。
「結局、俺はただ、逃げただけなのだ。あの人の抱えるしがらみを……、その全てを背負うだけの覚悟が定まらず、挙句に、一人置き去りにして逃げた……。生涯離さぬと誓いながら、恥ずかしげもなく、それを破ったのだ……」
「……」
「そんな俺の裏切りを憂えるあまり、天はおまえとめぐり合わせ、かつて犯した罪の深さを、今一度、突きつけたのやもしれぬ……。しかし、俺は再び、同じ過(あやま)ちを繰り返した。おまえのためと言いながら、その実、己が罪を認めたくないばかりに、あろうことか、おまえの心をも踏みにじり、引き裂いた……」
時ならぬ玄武の懺悔(ざんげ)に、竜はただ、呆然とするばかりだった。
「俺を恨んでくれ……、憎んでくれ……。全ては、俺という人間に出会ったがために、起きたことだ……。もっと、違う生き方もできたはずが……、最もつらい道を選ばせた……」
そこまで言って、ついには、侘しげにうなだれた玄武に、竜は湧き上がる思いをこらえ切れなくなった。
「頭を、恨むなんて……。そんなことは、考えたくもない……」
竜の声は微かに震えていた。
「頭に出会えたから、こうして、生きてこられた……。もし、頭に出会っていなければ……、俺は、この国の人間を憎んで、己の運命に絶望して、とっくに死を選んでいたに違いない……」
「……」
「頭が初めてだった……。人間として、俺とまっすぐに向き合ってくれたのは……」
その言葉に、玄武は少なからぬ衝撃を受けながら、ゆっくりと面を上げた。
「頭のおかげで、人として、生きて行く道を、手に入れることができた……。そのことの方が、俺にとって、ずっと大切なことだから……、だから、頭には、二度とそんな言葉を口にして欲しくはない……」
そう言って、竜はじっと玄武を見つめた。その瞳の奥には、強い光があふれていた。
(俺は、大きな考え違いをしていたのかもしれない……)
竜の心を本当に悩ませていたのは、叶わぬ恋の骸(むくろ)だけではなかったのではないか……? それよりも、もっと大元の……、人が人として存在すること、人間として生まれて来た以上、当たり前のことを、竜から奪い続けていた不条理――。
人並みの扱いもされなかった竜にとっては、あるいは、悲しい恋の痛みすらも、自分は紛れもなく人間だと実感できる、確かな証なのかもしれない……。
そうと思い至った時、長く閉ざされていた玄武の心の闇に、それをかき消すような、まばゆいばかりの光が差し込んでいた。これまでに、自らがかけてきた呪縛(じゅばく)から、解き放たれるかのようであった。
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明けて、承安3年(1173)――
竜は、再び京を目指すこととなる。
『おまえの安息の場所は、激動の嵐の中にこそある……』
佐古のあの言葉が、竜を突き動かしていた。
行く手に待ち受けているものへの怖れは、今もってなお、捨て切れはしない……。それでも、竜は、踏みとどまるよりも、前に進むことを選んだのである。
しかし、ようやく乗り越えたと思ったこれまでの試練とても、この先、果てしなく続く苦悩の日々から見れば、ほんの序章に過ぎないものであろうとは……。それは、当の竜も、まだ知らない――。
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