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「そいつが済んだら、次は五条中納言様のお屋敷だからな……」
涼しげに言う弥太に、伝六は、ほとほとうんざりとした顔をした。
「少しは休ませてくれよ! あっちに、こっちに……、俺らの身体は一つしかねぇんだぞ。これじゃあ、とても身が持たねぇよ!」
「何情けないことを言ってんだ? このくらいのことで音を上げるなんぞ、全くだらしのねぇ……」
弥太の容赦ない言い様に、伝六も思わず舌打ちした。
「吉次の野郎! よくも、竜を連れて行きやがったな! せっかく、あいつが帰って来て、少しは楽になると思ったのに……」
「無駄口を叩く間があったら、とっとと仕事を片付けるんだな。そうやって愚痴っていても、減るわけでなし……」
「へいへい。わかりましたよ……」
伝六の投げやりな答えを聞きながら、おもむろに背を向けた弥太だったが、一向に遠のく足音が聞こえないのを不審に思い、ついと振り返った。
「まだ何か文句でもあるのか!」
伝六は戸口の辺りで、棒切れか何かのように、ただ無言で立ちつくしていた。
「おい、どうした?」
その不自然さを訝(いぶか)しむ弥太の視界に、程なく、もう一つの人影が現れた。
ひどくくたびれた黒の袈裟(けさ)を身にまとい、じっと中を見回す眼光鋭い僧形の男――、これまで全く面識のなかった弥太には、それが高雄の聖(ひじり)文覚と知る由もなかった。
「何か……御用で?」
異様な気配にいささか怖気(おじけ)づきながら、弥太はぎこちなく声をかけた。
「玄武は……おらぬのか?」
小さくつぶやいた文覚は、眼前の弥太には目もくれず、宿の中をジロジロと眺め回していた。
「お頭は、今出ているが……。お知り合いで?」
弥太が尋ね返すのにも、
「おらぬのか……。それは残念……」
と一人ごちて、なおも、その目はどこか遠くを見つめていた。
「あの……」
たまらず、尋ねかけようとした弥太に、今度は文覚もしっかりと視線を絡ませて、
「すまぬが、玄武に伝えておいてくれぬか?」
「……」
「しばらく、京を留守にすることになるゆえ、高雄の庵(いおり)のことをよろしく頼むと……」
「……」
「文覚が、そう申しておったとな……」
一方的にそれだけ告げると、文覚は風のように去って行った。
残された弥太も伝六も、わけのわからぬままに、唯々、呆然と見送るしかなかった。
「何なんだ? あれは……」
狐につままれたような面持ちの弥太が、まず、第一声を上げた。
「驚いたなあ……。高雄の天狗が、いきなり目の前に現れるんだから……」
伝六の方もホッとするあまり、腰も抜かさんばかりになった。
「あれが噂の文覚か……。おまえの言ってた通り、何とも不気味な感じだ……」
「そうだろう?」
伝六はもっともな顔をして、弥太の同調を誘う。
「しかし、どういうことなんだろうな……。京を留守にするとか、庵を頼むとか……」
早くも、少し冷静さを取り戻した弥太は、ふと、文覚の残して行った言葉の意味を考え始めた。
「そりゃあ、どこか旅にでも出るんだろう?」
相変わらず、いい加減な口ぶりの伝六にも、
「しかし、そんなふうには見えなかったがな……」
弥太はどうも納得がいかないようで、まだ、首をひねっていた。
「それにしても、前々から気になっていたんだけどさ……」
「……」
「お頭も変なヤツと知り合いだよな。福原から戻って来る度に、高雄詣でも付け届けも欠かさないし……。いったいどういう関係なんだ?」
と、急に水を向ける伝六に、
「……俺が知るわけないだろう!」
この時ばかりは、弥太も口を尖(とが)らせた。
「けど、ここでは、寿老の次に古株だろう? 弥太は……」
「そりゃあ、そうだが……。俺だって、今日初めて会ったんだからな!」
と答える弥太に、伝六もつられて、うなずいていた。
「まあ、それを言うなら、お頭自体が謎なんだよな……。只者じゃねぇって言うか……。小松谷のお殿様とも、古い知り合いみたいだしな……。今をときめく平家の公卿に、わけのわからねぇ坊主……。何とも、奇妙な取り合わせだぜ……」
伝六の言うことも、もっともだった。
玄武の下で働くようになって早十余年――。利き腕と自負する弥太にも、玄武その人の実像は、未だによくわからなかった。
饒舌(じょうぜつ)とは言い難い玄武は、全くと言っていいほど、自分の過去を口にすることはなかったし、時たま、寿老との遣り取りを立ち聞いて、わかったことと言えば、かつて、侍だったということぐらいのものである。
もっとも、弥太にしても、それ以上、知りたいとも思っていなかったのだが……。
今の玄武の人柄にこそ心酔し、その下で働くことが、弥太の生きがいとなっていた。今さら、あれこれ詮索する気もなければ、仮に過去に何があろうとも、その気持ちが揺らぐことなどない。
一旦、命を預けたからには、何がなんでも、とことん信じ抜く……、そこが弥太らしい実直さでもあった。
「おい、いつまで、そうやって油を売ってるつもりだ?」
座り込んだまま、すっかりくつろいでいる伝六をジロリとにらみつけると、
「そら、行った、行った!」
弥太は、二度三度と手を打って追い立てた。
伝六はギョッとして、慌てて立ち上がり、
「人遣いの荒さじゃ、吉次といい勝負だよな。竜のやつも、今頃、えらい目にあってるんじゃねぇか?」
例によって、小憎らしい捨て台詞(ぜりふ)を残して出て行った。弥太もその後について、ひとまず表へ出る。
(竜……か。今頃、どの辺りだろうな……)
京より東が未知の世界であるのは、弥太とても同様である。
その行方に、一抹の不安を覚えながらも、一方で、あの竜であれば、どうとでもしのぐに違いない……と、手放しに信じ切っている所もある。
薄曇りをついて照りつける強い日差しの下、弥太はまぶしげに空を見上げた。そして、一つ大きく伸びをすると、また宿の中へと戻って行った。
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