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『文覚捕わる!』の報は、玄武はもちろんのこと、京童をも大いに驚かせた。
院御所法住寺殿(ほうじゅうじどの)への乱入のみならず、高雄神護寺の再建のために『千石の庄の寄進を!』と直訴にまで及び、それが聞き入れられないとなるや、御前にて悪口雑言の限りを並べ立てるなど、その余りに傍若無人な行いが、遂には院の怒りを買う所ともなり、即刻、検非違使の下役に引っ立てられたのだという。
その後、文覚の身柄は、右京権大夫源頼政に預けられたが、やがて下った裁定は伊豆国への配流――。頼政の嫡子仲綱が国の守を務めていたこともあるが、政治犯並みの遠流(おんる)という最も重い刑罰に処せられようとは、誰しも予想し得ないことであった。
「畜生! 馬鹿にしやがって!」
騒動から数日が経ったある夜のこと、放免(ほうべん)の溜(たまり)で、一人の男が吐き捨てるように言い放った。
放免とは、検非違使庁の最下級の職で、犯罪人の探索や捕縛、あるいは流人の護送の役目に当る、言わば下っ引きのようなものである。
その名の通り、かつて罪を犯した囚人ながら、裏社会の事情をよく知ることを逆手に取り、特に赦免(しゃめん)されて、召し使われている者達なのだが、元が罪人なだけに素行も悪く、役人の威光を笠に来て乱暴を働く者や、何かにつけ賄賂(わいろ)を要求する者も、後を絶たなかった。
「どうした? 何をそんなに怒ってやがる?」
憤懣(ふんまん)やる方ない様子のその男を、他の仲間達が取り囲んだ。
「どうしたも、こうしたもあるものか! あの、くそ坊主!」
「……」
「心づけしだいで、自ずと扱いが変わるのがここの流儀――。『金のある知り人があれば文遣いをしてやる……』と親切で言ってやったものを、何て抜かしやがったと思う?」
「さあて……」
「やれ、上等の紙を出せだの、字が書けぬからわしに書けと、文句ばかり申して……。挙句に、書いたら書いたで、宛名は清水の観音房(かんのんぼう)だと! 人を愚弄(ぐろう)するにも、程があるというものだ!」
「清水の観音房ねえ……。そいつは恐れ入った」
聞き役に回っていた男達は、呆れた体(てい)で顔を見合わせた。
「何でも、あの坊主、相当、頭がイカレてるって話しだ……。真面目に取り合うと、こっちが、馬鹿を見る……」
「いくら、暮し向きに困ったからと申して、よりによって、院の御所に物乞いに参るとは……」
「痴(し)れ者の程が、わかろうと言うものだ……」
それぞれが言いたい放題に悪態をつく。
「まあ、明日の朝には、この京から追っ払われる身だ。せいぜい、言いたいことを言わせておけ……」
放免達は、日頃の憂さを晴らすように散々に嘲り笑い、いつの間にか、その場に忍び入っていた者にも、まるで気づかぬ有様だった。
「その痴れ者に、会わせてもらいたいのだが……」
ふいの声に、男達は咄嗟に身構え、一斉に振り返った。と、そこには、大きな甕(かめ)を抱えた、一人の男が立っていた。
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「あと半時したら役替りだ。それまでの間だからな……」
案内して来た男は、無愛想に言い捨てると、そそくさと立ち去った。
「おぬし……」
見上げた文覚が我知らず絶句する。
「思ったより、元気そうではないか……」
にこやかに言う玄武にも、文覚は不快げな顔をのぞかせた。
「何をしに参った!」
「相変わらず、つれない申し様よな……。せっかく訪ねて参ったものを、他にもっと言い方もあろう……」
「あいにく、これが、生まれついての性分でな……」
文覚のすねたような口ぶりに、玄武は苦笑を浮かべつつも、直に真顔になり、
「何か申し残しておきたいことでも、あるのではないかと思うてな……」
そう言って、文覚の前に腰を下ろした。
「あの日、わざわざ訪ねて参ったそうではないか? 高雄の寺のことを頼むと……。おぬし、こうなることを覚悟の上で、あのような無謀な真似を……」
文覚は、玄武の問い掛けには答えず、
「竜は、東国へ参ったのであろう?」
あっさり話の矛先を交わされ、玄武も一瞬口籠った。
「ああ……。宗高に着いてな……」
「そうか……」
玄武の返答に、文覚は一つ大きくうなずいて、
「わしも、己の天命に従うたまでのこと……。あの寺を再建する……、その天命を全うするために……」
「したが、それで捕えられ、遠国(おんごく)に流されたのでは、何にもならぬではないか! これでは、捨て石に過ぎぬ!」
思わず玄武も声を荒げた。が、
「そう思うか?」
文覚は、少しも気に病むふうもなく、むしろ、笑みさえも感じられる双眸(そうぼう)を、玄武に向けた。
「この世に、無駄なことなど、何一つありはせぬ。一見、捨て石に見えることが、これからの世を大きく変える礎(いしずえ)となることもある」
「……」
「確かに、わしの願いは院の耳には届かず、かような仕儀とあいなった。じゃが……、此度の事で、少なくとも、院も、あの荒れ寺をどうにかして復興したいと願う、痴れ者の存在には気づかれたはず……。それだけでも、何もせずにおった頃よりは、一歩前に踏み出した……。そう思わぬか? 最も愚かなることは、何もせぬうちから、その可能性すら自らの手で摘み取ることじゃ……」
「……」
「わしは、必ず戻って参る。高雄の寺をこの手で再建するために、この世に生を受けた身なれば……、この命が終わる時もまた、それを成し遂げた時じゃ……。此度の流刑も、そのための試練の一つに過ぎぬ」
文覚の凛とした風情に、玄武は返す言葉もなく、思わずうつむいた。
「おまえが、うらやましい……」
ようやく聞き取れるほどの、小さなつぶやきだった。
「……何がだ?」
「己の生きる道を、はっきりと見定めている……」
「……おぬしはそうではないと?」
文覚は、いたって穏やかに問い掛けた。
「俺は……、いつまでも、靄(もや)のかかった闇をさまよい続けている……。どこへ向かえばよいのかもわからず。いつも、『これでよかったのか?』と自問して……。おまえのように『これだ!』と言える道標(みちしるべ)を見い出すこともできぬまま……」
そう言って、なおうなだれる玄武に、文覚は鋭い視線を投げかけた。
「わしには、とうにそれを見つけているように思えるが……」
「……」
「見つけていながら、それと向き合うことを怖れておるだけであろう……」
「……何と?」
「玄武……。天命とは、必ずしも、公明正大なものとは限らぬのだぞ。時には、人の謗(そし)りを受けるものとてもある……」
「……人の謗りと?」
玄武は、やにわに文覚を見返した。
「今の世では正しいと思われることも、あるいは、次の世ではそうではないやもしれぬ……。かと思えば、今の世では、世間の誹謗(ひぼう)に曝(さら)されることとても、次の世では、賞賛に値するものとなるやもしれぬ。人が人を評することに、絶対はない。その時々の、人間の都合の良いように、その価値も変わるもの……」
「それは……、俺に与えられた天命が、今の世の、人の謗りを受けるものだということか?」
目を剥(む)いて迫る玄武に、文覚は静かに首を横に振った。
「それはわからぬ……」
「盛遠!」
「わしには、己の天命は見えても、他人のそれは、しかとは見えぬ……」
「なれど、竜の天命は見えたのではないのか! 天下に野心を持つものを、その運命の渦に引き込み、翻弄すると……、そう申したではないか!」
「あの者は、人ではない……」
文覚の返答に、玄武も一瞬、我が耳を疑った。
「……何と? 今、何と申した?」
「あの者は、人であって、人でない……。人の姿をした、神だ……」
「……?」
驚きのあまり、玄武は声を失った。
「無論、肉体そのものは、人のそれだ。だが、その心の奥底には、神が住まっている……。いかような経緯(いきさつ)でそうなったかは、このわしにもわからぬが……。しかし、それゆえに、移ろい行く時の中で、ただ一人、年も取らず、姿形も変わらず、その心根も変わることはない……。あの者に出会う度に、人は己の老いに気づかされ、失なわれたものの重さを改めて思い知らされることにもなろう……」
毒気にでも当てられたような玄武の狼狽を尻目に、文覚はなおも続けた。
「平重衡と竜が、いかに、互いを引き合う強い絆を持とうと、所詮、重衡は生身の人間――。周りに流される弱さを持つ人間は、どんな苦難の中でも、己の意志を曲げることを知らぬ竜の強い信念の前では、卑屈になることしかできぬ。そして、その思いは、やがて、竜を疎(うと)んじ、憎むことにもなるであろう……」
「……」
「それが、いずれ対立することになると……、そう申した訳だ」
玄武は、先日の小松谷での重衡との遣り取りを思い返していた。
あの時、ふと不安にも駆られた重衡の強さと脆(もろ)さ――。その危惧(きぐ)も、やはり思い過ごしではなかったということか……。
「玄武、おぬしだけやもしれぬ。あの二人の、どちらの思いも理解できるのは……」
「……俺が?」
さらに不可解なことを口にする文覚に、またもや玄武は唖然となった。
「なぜか、そう思える……。だが、それが、おぬし自身を苦しめることにもなろう……」
「……」
「両極にある二人の心は、激しく引き合い、反発し合う……。そして、その狭間に立つおぬしは、どちらにつくこともできず、あるいは、その心を引き裂かれることになるやもしれぬ……」
文覚の言うことは、玄武にはどうも、容易に理解し難いものばかりである。
自らが、その運命を京にまで運んだ竜のことならばいざ知らず、なぜ、重衡までも……。いつも一方的に投げ掛けられる文覚の言葉に、己はただ、翻弄されているだけではないか……。
さりとて、文覚の発言は、どんな時も、その的の真ん中を射抜かずとも、遠くかけ離れていることもない。それだけに、玄武の胸中を襲う不安も、計り知れぬものがあった。
「おい、そろそろ刻限だ!」
放免の甲高い声に、玄武はようやく我に返った。
「京を発つ前に、おぬしに会えてよかった……」
文覚は神妙な面持ちで、頭(こうべ)を垂れた。
「高雄の寺のことを、くれぐれも……」
「わかっている……」
玄武は、小さくうなずいて、ゆっくりと立ち上がった。そして、放免の男に促されるまま、歩を進めようとしたその背に、さらに、文覚はつぶやきかけた。
「玄武よ……」
「……」
「迷うた時は……、己の内なるものを、しかと見据えてみよ。己の真から欲するものは、ただ一つ……。それを見誤らぬ限り、たとえ、人の謗りを受けようと、後で悔いることはない。悔いなくば……、人の謗りなど、吹き過ぎる風に舞い踊る、木の葉が如き軽きもの……。意に介することもない……」
(己の真から欲するものを……)
玄武は背を向けたまま、文覚の最後の言葉を噛み締め、静かに去って行った。それを見送りながら、放免達は、媚(こ)びた笑いを文覚に向けていた。
「金のある知り人が、ちゃんといるではないか。囚人に会うために、一甕(ひとかめ)の酒を手土産に……。やけに気前のいいことだ……」
「ついでに、もう少し、施しを頼んだらどうだ? 旅の道中も、ずっと楽になるぞ……」
そんな男達の忠告にも素知らぬ風で、文覚はいきなり経を唱え始めた。その凄まじい大音声には、誰も彼もが思わず耳を押えるほどだった。
「うるせぇぞ!」
「ここは寺ではない!」
男達の怒鳴り声に、文覚はフツと読経をやめると、
「その方達のために、御仏に祈ってやっておるのだ。この世で、最も有難い施しをしてやっておるのに、うるさいとは罰当たりめが!」
「何だと!」
言い返す前に、またも文覚は読経を始め、男達は我慢がならず、遂には逃げ出した。そして、それはこの夜一晩中、続けられることとなった。
かくして、翌朝、流人文覚は配所の伊豆へと向けて旅立って行った。
廃寺の再興の志半ばでの流刑――。しかし、このことが、また新たな局面を切り開くことにもなる。そして、あるいは、文覚の真の狙いも、そこにあったのかもしれない。
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