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その日の夜更け方――。
また、いつものように遮那王が抜け出して行くのを見届けると、竜もおもむろに起き上がり、そのまま足音を忍ばせ吉次の部屋を訪(おとな)った。
ほの暗い灯明の下で、何かの書状に目を落としていた吉次が、驚いたように顔を上げた。
「おまえか……。驚かすなよ……」
軽く息をついて、吉次は手にしていた書状を無造作に折り畳んだ。
「吉次、何か……あったのか?」
「……うん?」
「そういえば……、少し前に馬の嘶(いなな)きを聞いたような……」
いぶかる竜に、吉次は再び軽くため息をついて、
「相変わらず、耳聡いやつだな。全く、おまえには隠し事もできぬ」
と、苦笑いすると、
「仕方がない。おまえにだけは明かしておくが……」
そう前置きして、竜をそば近くに誘(いざな)った。
「この所、美濃辺りを根城にしている野盗どもの動きが怪しいらしい。どうやら、鏡の宿からこの方、密かに我らの跡を追って来ている輩がいるとか……」
「……鏡の宿から?」
瞬時にあの夜の騒動を思い浮かべ、竜の中にも緊張が走った。
「今一度、我らを襲うつもりか……。いや、むしろ、連中の真の狙いは……」
意味ありげに見つめる吉次に、竜もふと、ひらめくものがあった。
「遮那王殿か!?」
迷わず答えた竜に、吉次は内心、舌を巻きながら、
「あれほどの手ひどい返り討ちに遭うたのだ。黙って泣き寝入りしてくれるような輩ならば、何の苦労もないのだが……。一味の頭目を殺(あや)められ、残った手下どもが『敵討ちを!』と息巻いているらしいのだが、真の所は『我こそは!』と、新たな頭目に名乗りを上げるための、功名欲しさゆえであろう……」
「……」
「こうなることも薄々予想しておったゆえ、目配りを怠らぬよう申し付けておいたのだが……」
やはり、音に聞こえた商人だけのことはある……と竜は思った。その洞察力の深さ、手抜かりのなさ――。並みの人間であれば、危難をうまく避けたことに油断しこそすれ、そこまで慎重な配慮など、なしえないだろう。
「したが、それより問題なのは、やつらが遮那王殿の素性に気づいておるのかどうか……」
吉次はさらに、何やら含みのある問いを竜に投げ掛けた。
「万一、源氏にゆかりの者と知れれば、これは面倒なことになるやもしれぬ。あるいは、恩賞欲しさに、六波羅へ突き出そうなどということも……」
「……六波羅へ?」
「何せ、出家と引き換えに助命された身の上にありながら、あろうことか、その寺より出奔して参ったのだからな。かくなる上は、斬首とて免れまい。そして、我らがそれを承知で伴ったことまで知れれば、ひいては平泉の御館にも類が及ぶやもしれぬ」
改めて事の重大さに気づかされ、竜は返す言葉もなかった。
「まあ、これはあくまでも最悪の場合の話だ。やつらが、そこまで気のきいたことを考えつくとも思えぬが……。とは申せ、用心を怠るわけにはいかぬ。遮那王殿の耳にも、それとなく入れておかねばならぬが……」
そこまで聞いて、竜はつと背筋を伸ばし、吉次の目を見返した。
「そのことで吉次に話があって……」
急に切り出した竜に、吉次は首を傾げつつ耳を傾ける。
「もっと早く言っておかねばならぬことだったが、遮那王殿は、この所、毎晩のように、宿を抜け出されて……」
「剣術の稽古……だろう?」
この様子では、吉次もとっくに気づいているのだろうと思ったが、その思惑通りの返答を聞いて、竜も少し安堵した。
「よくもまあ、毎晩毎晩、飽きもせず続けられるものと感心もしてはいたが……。では、今宵もか?」
無言でうなずきながら、竜は急に妙な胸騒ぎを覚えた。それは吉次も同じだったのだろう。奇妙な沈黙の間があった後、
「今すぐ連れ戻してくる!」
竜はすかさず立ち上がった。
「そうだな。今宵、いきなり……ということはあるまいが……、何かあってからでは遅い。首に縄をつけてでも必ずやお連れ申せ!」
竜はしかとうなずいて、くるりと背を向けた。
「鬼若のやつにも、すぐに後を追わせる。あの男のこと、何も知らせずにおけば、また、性懲りもなく、ふて腐れるであろうからな……。ともかく、何かあったとしても、くれぐれも無理はするなよ!」
吉次はすぐにそう付け加えたものの、もはやそこに竜の姿はなかった。
(さて……、今宵はどちらにおいでか)
宿の外へ飛び出した竜は、まずは心を落ち着かせ、じっと耳をそば立てた。が、すぐには遮那王の気配を見つけることができない。つい夢中になるあまり、かなり遠くまで行ってしまったのであろうか……。
逸る思いを抑え、およその見当をつけて歩き出したものの、しばらく行くと、何か足に当たるものがあり、つと足を止めた。
(これは……)
三尺余りの細長い枝だった。
瞬時に脳裏をよぎる記憶――あの夜、遮那王が太刀の替りに、手にしていた棒切れも、同じようなものではなかったか……。
愕然としながらも、その場にしゃがみ込んだ竜は、目を凝らして辺り一面を見回した。ほんの些細な手掛かりも逃すまい……。そして、じきに何かを引き摺ったような形跡を見つけると、先へと伸びるその行方を目で追った。
(もしや……)
疑惑は既に確信へと代わっていた。
(一旦戻り、吉次に知らせるべきか……)
未だ、鬼若が追いついて来る気配はなく、竜もしばし思い迷った。が、遮那王が出て行った刻限からは、まだ、そう時も経っていない。今なら、すぐに追いつけるかもしれない。まずは居場所を突き止めてから……。
竜は手の中の棒切れをしっかりと握り締めると、森の奥深くへと足を進めた。
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(不覚であったな……)
遮那王は後ろ手にきつく縛り上げられながらも、さして慌てる風はなかった。
自分を襲ったこの男達の正体は、遮那王もすぐに察していた。何せ、鏡の宿での乱闘のさ中に、チラとはいえ、確かに目にした面相ばかりである。
(やはり、一網打尽にしておくべきであったな……)
首領とおぼしき男を倒した所で、後は逃げるにまかせ見逃してやったものを……。
(懲りぬやつらよ……)
遮那王も激しい後悔の念に駆られた。
(さても……、こやつらを何とするか……)
この程度の戒めを抜けるなど、遮那王にすれば何の雑作もないことだった。その証拠に、背中越しに絶えずうごめかせていた両の手は、すっかり縄目も緩んでいた。
(しかし、このまま、ただ逃げ出すというのも、何やら面白うもないな……)
始めはすぐにも命を奪われるものと、遮那王も不本意ながら覚悟を決めたのだが……、予想以上に、いとも簡単に獲物を手中に納めたことで、盗賊達も少しばかり気が大きくなったか、
「こうして見ると、大そうな美形ではないか。いっそ、叡山の僧にでも売り飛ばすか……」
中の一人がそうほざいて、酒臭混じりの吐息を遮那王の顔に吹きかけた。
(下衆(げす)め……)
遮那王は思わず口から出そうになる声を噛み殺し、プイと横を向いた。
「何だ! その態度は!」
怒鳴り声とともに、左の頬を強く張られた。その拍子に、切れた口元には血がにじみ、鉄の味が口中に広がった。それでも、遮那王はゆっくりと向き直ると、
「よいのか? 下手に傷なぞつけたら、売り物にもならなくなるぞ」
冷ややかに言い放って、男の目をしかと見据えた。
これで、相手もわずかながら躊躇(ちゅうちょ)したか……、その一瞬の隙を見て取るや、遮那王はいきなり体当たりを食らわせた。そして、よろめいた男が体勢を立て直すより早く、その腰から太刀を掠(かす)め取り、翻(ひるがえ)りざま、真正面に構えていた。
「おのれ……」
明らかに狼狽している男に、遮那王は再び冷笑を浴びせながら、
「先ほどは、よくもまあ、せっかくの稽古を台無しにしてくれたものだ。せめてもの罪滅ぼしに、我の相手になってもらおうではないか」
「……」
「言っておくが、此度は容赦せぬぞ。ここから生きては戻れぬものと、よくよく覚悟いたせ!」
そう言って、いきなり目前の男を一刀の許に斬り捨てると、返す刀で、脇から突っ込んできた手合いの脳天を叩き割った。しかし、敵もさるもの、我先にと打ちかかる命知らずは後を絶たない。遮那王はひたすら感覚を研ぎ澄まし、確実に急所を仕留めて行くものの、鏡の宿の時と違い、明らかに己一人に狙いを定めた輩が相手では、屍の山を築くにつれ、次第に疲労の色も表れ始めた。
それでも、残る敵は、刀も放り捨て、すっかり震え上がっている小男一人となり、乱れた息を整えながら、これにも、遮那王は容赦なく太刀を振り上げた。が、ふいに何者かに腕をつかまれたかと思うと、
「おやめなされませ!」
聞き覚えのある声が耳元に響いた。
「このような小者を手にかけた所で、何の得がありましょうや!」
声の主が竜とわかり、遮那王はホッとしたのも束の間、
「何を申す! 下手に情をかけ見逃してやったゆえ、かような恥辱を与えられたのではないか。こやつとて、いつ何時、また我らを襲うやもしれぬのだぞ。なればこそ……、災いの芽は悉く摘んでおかねばならぬのじゃ!」
と叫んで、腕を振り解こうとするものの、縄の戒めとは違い、ビクとも動くものではなかった。
「御心を鎮めて下さりませ! この者にさような度胸などありはしませぬ」
それを聞いて、小男は声もなく、ただ小さく何度もうなずいた。
「どうか、この竜に免じて御慈悲を!」
頑として譲らないその強情さもさることながら、己の剣を、いとも容易(たや)く封じ込んでしまった竜の大きさに、遮那王は底知れぬ悔しさを覚えた。
が、少し冷静さを取り戻してみると、なるほど、竜の言うとおり、こんな端にも棒にもかからぬ小者相手に、これ以上、向きになるのも、何やら馬鹿らしく思えてきた。すると、遮那王のそんな心境の変化も、何もかもお見通しか……、頭上高くに縫い止められていたはずの利き腕も、いつの間にやら自由を取り戻していた。
「み、見逃して……くれるのか?」
小男はおっかなびっくりの様子で竜に尋ねる。
「よろしゅうございますな」
もう一度、念を押され、遮那王はばつが悪そうにそっぽを向くと、
「どこへなりと消えるがよい。二度と我の前に姿を現すでないぞ!」
そう吐き捨てた遮那王の様子が、妙に子供っぽく見えて、竜も思わず笑みをもらした。
「かように仰せだ。すぐにこの場より立ち退(の)かれよ」
竜は穏やかに言って、なおも腰を抜かしたままの小男に手を差し出した。
「したが、その前に、一つ尋ねるが……、仲間の者はこれだけか?」
竜に尋ねられ、男はおもむろに屍の山を数え出した。
「はて……、今一人……いたはずなれど……」
その答えを聞き終える前に、遮那王はドーンと、何かに弾き飛ばされていた。あいにく、大木の幹に思うさま身体を打ち付け、一瞬、気も遠くなりかけたが、次の瞬間、
「ヒャーッ!」
という短い叫びと共に、強い血の臭いが鼻をかすめた。あの声は、先ほどの小男のものだろうか……。
遮那王は未だ朦朧とする意識と戦いながら、太刀を握りなおして気配を伺う。そして、明らかに殺気立った風を感じるや、持てる力の限りを込め、それを薙(な)ぎ払った。確かな手ごたえがあった。
しんと静まり返った小立の間に聞こえるのは、もはや、遮那王の乱れた息遣いばかり……。
気づけば、はや夜明けも近いのか、辺りは薄靄(うすもや)に包まれながらも、先ほどに比べ、随分と明るさが増していた。思わず脱力して膝をついた遮那王だったが、突如、その視界に飛び込んで来た光景に、例えようもない強い衝撃を受けた。
(そんな……馬鹿な!)
失せかけた気力を懸命に振り絞り、どうにか立ち上がってはみたものの、思うように足が前に出ない。
さながら夢の間をさまようが如く、ひどくおぼつかない足取りで、ふらふらと歩み寄った遮那王は、うつぶせに倒れている大きな身体をやっとの思いで抱え起こした。
その途端に、掌(てのひら)を覆う奇妙に濡れた感触――それが、この悪夢の如き出来事も、紛うことなき現実のものであることを示していた。
「竜……」
遮那王は蒼然となりながら、幾度となく身体を揺すってみた。が、薄く閉じた瞼(まぶた)が再び自分を見返すことはなく、それどころか……、ただ、右の肩口から止めどなく伝い落ちる紅の雫の流れの他は、全くと言っていいほど、何の動きも見られなかった。
「竜……、しっかりいたせ! 早う目を開けよ!」
何回、何十回と繰り返される悲痛な叫び――。
果たして、辺りにこだまするそれを聞きつけたものか……。ふいに、どこからともなく、馬の蹄(ひづめ)の音が近づいて来ていたものの、一心不乱の遮那王の耳には、とても届くものではなかった。
「いかがしたのか?」
ついと馬から降り立った若武者が、ゆっくりと遮那王のすぐ背後まで歩み寄って来た。
「これは……」
辺りの惨状に瞠目しつつも、瞬時に事情を飲み込んだのか、なおも泣き叫ぶ遮那王をやにわに押しのけると、ぐったりとしなだれかかる竜の身体を抱え込んだ。
「何を致す! 竜を放せ!」
傍らで喚き散らす遮那王には一顧だにせず、いち早く、その傷の具合を見て取った若武者は、
「まだ息がある!」
と言って、そのまま竜を肩に担ぎ上げた。と、そこへ、また一頭、馬が駆け込んできた。
「殿! これはいかがしたことか?」
馬上の男の問いかけにも、若武者はただ、
「すぐに館へ戻るぞ! そこな童と後の始末は、兼平、その方に任せた!」
とだけ答えて、愛馬の鹿毛に竜を乗せ、自らも跨(またが)ると、強く鞭を当てて、一目散に駆け去って行った。
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