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「巴! 巴はおらぬか!」
館中に響き渡るような大声に、驚いて廊に出た巴は、床板を踏み鳴らしながらこちらへと向かって来る義仲と行き会い、そのあまりの物々しさに、白くたおやかな横顔を、俄かに強張らせた。
「何事にございますか!」
巴の問い掛けにも、義仲は血まみれになっている男を肩に担いだまま、
「話は後じゃ!」
とだけ答えて、そのまま足早に奥へと進んで行く。巴も堂に入ったもので、黙って後に続いた。
その後、義仲の一の郎党・今井四郎兼平が遮那王を伴い、館に戻って来たのは、小半時も経った頃であろうか。
主の気まぐれはいつものことながら、夜も明けきらぬうちから、急に遠乗りに出かけ、それにいち早く気づいた兼平は、眠気も覚めやらぬまま、慌てて後を追いかけたのだが……。
そこに、突如として現れた目を覆うばかりの惨状――。無数に転がる骸(むくろ)を数える間もなく、当の主は立ち去り、見も知らぬ少年と二人、その場に取り残されて、さしもの兼平もかなり気が動転していた。
しかし、いつまでもこのままというわけにもいかず、ともかく、この少年から事の次第を聞き出そうと、試みに声をかけてはみるものの、すっかり茫然自失の体(てい)の遮那王は、その場にうずくまったまま、何の答えも返そうとしない。
後の始末をつけるにしても、一旦、館に駆け戻り、郎従の5〜6人も引っ張り出して来ないことには、まるでお手上げなのだが、さりとて、年端も行かぬ少年をこんな所に一人残して行くこともできず……。
どうにも考えあぐねていた所に、天の助けか……、鬼若を連れた吉次が現れたのである。
「これは、今井殿!」
「……吉次か?」
常日頃の往来で、元より面識のある二人は、互いを認めて、同時に驚きの声を上げた。
「お久しゅうございます。したが……、何ゆえこのような場所に?」
状況がさっぱり飲み込めず、首をかしげるばかりの吉次に、兼平はとりあえず、自分のわかり得る範囲のことを話して聞かせた。
「竜が!」
深手を負ったと知らされて、吉次もひどく狼狽した。
「私のせいじゃ……。私のために……」
吉次や鬼若の顔を見て、少しは気持ちも落ち着いたのか、遮那王がようやく口を開いた。
「賊の一人を打ちもらしておったことに、何ゆえ気づかなかったのか……」
とてつもない力で弾き飛ばされたあの時、遮那王は、自分の身に、いったい何が起きたのかもわかってはいなかった。やがて、倒れ伏す竜を見つけ、これを抱え起こして始めて、己が竜に救われたことを悟ったのである。
『今一人……いたはずなれど……』
そう小男がつぶやいたのにも、遮那王は取り立てて気には留めなかった。が、直感でただらぬものを感じ取った竜は、その瞬間、持てる力の限りを込めて、遮那王を突き飛ばしていたのである。
今もまだ背中の辺りに残る鈍い痛み――、それは、この身を救わんとした竜の必死さがもたらしたもの。もし、あの場に留まっていたままであれば、過(あやま)たず、刃の餌食となっていたのは遮那王自身に違いなかった。
「そのように、ご自分をお責めになられますな……」
吉次は、自責の念に駆られる遮那王の傍らにそっと歩み寄り、両の肩に手を置いた。
「誰のせいでもありませぬ。これはやむを得ぬ事故にござります」
「……」
「どういうわけか、竜というやつは危急(ききゅう)を察することに、事のほか、長(た)けておりましてな。これまでにも、あの者のおかげで命拾いをした者は、一人や二人ではありませぬ。この吉次とて、先日、鏡の宿で救われたばかりにございます」
「吉次……」
「強いて申すなら、その人並みはずれた才ゆえに招いた、あやつの身の不運……。決して、御身一人のせいではござりませぬ」
そう言って、吉次は、なおも無念の思いに肩を震わせる遮那王をなだめた。
「鬼若!」
一転、容(かたち)を改めた吉次は、所在無げに立ち尽くす男の名を呼んだ。
「おぬし、今しばらく、この場に留まり、経でも上げておれ」
「……何と? このわしがか?」
突拍子もないことを言われ、鬼若も目を剥(む)く。
「曲がりなりにも、おぬしも坊主であろう? 盗人とは申せ、死者には経の一つも手向けてやるものじゃ」
と冷ややかに言う吉次に、鬼若は不満顔で言い返そうとしたが、
「何、これから急ぎ宿に戻り、すぐにも人足どもを寄越すゆえ、それまでの間、番を頼みたいだけよ。これだけの骸をこのまま捨て置くわけにもいかぬからな」
そのように言われては、反論のしようもなかった。
「今井殿、お手数をおかけいたすが、一足先に、この者だけでもお館へお連れ下さらぬか?」
吉次は向き直り、兼平の前に遮那王を押し出した。
「どうにも気がかりなのが竜の容態。某もすぐに後を追いますが、木曽殿には何卒よしなにと……」
兼平はなおも困惑しながらも、
「わかり申した。では……」
かくして、兼平は吉次から遮那王の身柄を託され、急ぎ館へと駆け戻ってきたのである。
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「おう、戻ったか……」
馬の嘶(いなな)きを聞きつけた兼平の兄・樋口次郎兼光が、すぐさま奥から姿を現した。
「朝も早うから、いったい、どうした騒ぎなのじゃ?」
と訝(いぶか)しげに尋ねる兼光に、
「聞きたいのは某(それがし)の方でござるよ。殿の気まぐれは、今に始まったことではござらぬが……」
そう答える兼平の脇をすり抜けて、兼光の前に進み出た遮那王は、
「竜はいかがした!」
と必死の形相で詰め寄った。兼光はそれを胡散臭(うさんくさ)そうに眺め、次に兼平の方を見遣ると、
「殿が連れ帰った下郎(げろう)ならば、今もまだ、奥で巴が手当てを致しておるが……。しかし、あの傷では、とても助かるまいな……」
途端に、遮那王が眉をひそめた。
「でたらめを申すでない! 竜は決して死にはせぬ!」
急に、声高に食ってかかって来た遮那王に、兼光はいささかたじろぎつつ、
「でたらめも何も……、傷が深うて、いっこうに血が止まらぬのじゃ。あれで、まだ息があるのが、むしろ不思議なくらいよ……。まずは、いらぬ期待は持たぬのが懸命……」
と容態のほどを説明すると、遮那王は声もなく蒼然と立ち尽くした。
「兄者、今そのようなことを申されずとも……」
遮那王の動揺ぶりを見て、兼平が慌ててたしなめると、兼光も気まずそうにうつむいた。
と、そんなどんよりと沈む空気を一掃するように、この家の主、義仲が姿を現した。
着衣の至る所を、不自然な色合いに染め上げているのは、言わずもがな、竜の流した血の跡であろう。既に乾きかけたそれは、黒味の強い紅に変色し、その仁王立ちになった様などは、地獄の獄卒を思わせた。
「兼平、戻っておったのか……。して、いかが相なった?」
真っ先に尋ねかけられ、兼平はつと歩み寄ると、
「それが……、あの後、吉次と出会いましてな……」
「……吉次? あの金売り商人か? なるほど、あやつの手の者であったか……」
義仲は腕組みをして、大きくうなずいた。
「後の始末はあちらで引き受けると申しましたゆえ……。吉次も間もなく訪ねて参ろうかと思いますが、この童だけでも先に伴ってほしいと頼まれまして……」
と言って、兼平は後ろにいる遮那王を返り見た。
「ほう……、先ほどの」
義仲も興味深げに遮那王を見つめる。
「竜は……、竜は助かるのであろうな!」
真摯に訴えかける遮那王に、義仲はふうっと一つ息をつくと、
「さて……、どうであろうな……。これまでに、あれほどの血を流して、助かった者などわしは知らぬが……」
「……」
「尋常では、今夜一晩もつか……。もはや、これ以上は手の施しようもないのでな。生きるも死ぬも、後はもう、あの者の命運次第……」
これが最後の宣告となったか……、遮那王もようやく目の前の現実としかと向き合う覚悟を定めた。
「ところで、おぬしはいったい何者だ? その風体から察するに、どこぞの稚児のようでもあるが……。しかし、只人ではあるまいな。大した剣の遣い手と見たが……」
茫洋(ぼうよう)とした瞳の中にも、時折、値踏みでもするような鋭さが感じられ、遮那王はわずかに瞳を揺らめかせたものの、今一度、心を奮い立たせ義仲と向き合った。
「人に名を尋ねられるなら、まずは御身自ら、名乗られるのが道理――」
遮那王は負けまいと、義仲をにらみつけた。
「これは気の強い小童(こわっぱ)じゃ……」
からかい半分に笑われて、生来の武者の本能に火がついたか、遮那王はいっそう目に力を入れて、義仲を見据えた。二人のにらみ合いは一しきり続いたものの、やがて、
「木曽次郎・源義仲――。これで、よろしいかな?」
義仲は薄く笑い、穏やかに答えた。それを聞いて、一つ小さく息をついた遮那王も、
「我は、先の平治の戦で無念の最期を遂げられた左馬頭・源義朝が末子、幼名牛若、今は遮那王と申す!」
と高らかに名乗りを上げた。
「ほう……」
思わず声を上げた義仲に、遮那王はことさら誇らしげに胸を張った。
「その方が鞍馬の暴れ馬殿か。風の噂には聞いておったが……。これは、思わぬ形で、従兄弟殿との対面が叶うたというわけか……」
遮那王はしばし呆気に取られた。
従兄弟――、義仲の父故帯刀先生(たてわきせんじょう)義賢(よしかた)は、遮那王の父義朝の弟であったから、なるほど、血筋の上では二人は確かに従兄弟同士の間柄ということになる。
そのことは、遮那王とても、遠い昔に、誰かから聞かされたような記憶もあるのだが、しかしながら、実際に顔を合わせるのは、これが初めてのこと。しかも、幼くして鞍馬寺へ入れられ、ほんのつい先頃まで、世俗と隔てられた世界に身を置いていた遮那王にすれば、今ここで、急に祖父を同じくする同族と知らされても、いったい、どのような反応をすればよいのか、まるでわからなかった。
「して、かの金売り商人について、いったい、何処(いずこ)へ参られるおつもりか?」
なおも困惑している遮那王に、義仲はさらに問いかける。
「何処に参ろうと某の勝手にござろう!」
弱みを見せまいと、遮那王は吐き捨てるように言い返した。が、それを聞きながら、義仲は不敵な笑いを浮かべた。
「吉次の行き先は、言わずと知れた奥州平泉。大方、北方を牛耳(ぎゅうじ)る夷狄(いてき)の力にでもすがろうとの魂胆であろう?」
図星を指され、遮那王は絶句した。
「まあよい……。ここは源氏の領内。安心して、まずは旅の疲れを癒されよ……」
余裕の表情で言う義仲に、遮那王は悔しさのあまり歯噛みした。
「殿、このような所で何を? 早うお召し替えを…」
ふいに、背後に現れた巴が促した。それに小さくうなずき、悠然とその場から立ち去った義仲に、遮那王は如何ともし難い思いを抱えて、これを見送った。
「遮那王様……と申されましたね」
巴は客人に対する礼として軽く会釈をした。
「どうぞ、この先をお進み下さいませ。兼光兄上、ご案内を。私もまた、折を見て、様子を伺いに参りますが、吉次殿がおいでになるまでの間、かの者のことは遮那王様にお頼み申します」
と頭(こうべ)を垂れた巴は、兼光に目配せして、すぐさま義仲の後を追った。
兼光は一つ咳払いして先に立ち、
「では、参られるか」
遮那王も神妙にうなずいて、無言のまま後に従った。
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