|
咄嗟(とっさ)に振り返って見上げた竜の目に、一人の人物が飛び込んで来た。
そこに立つ人こそが、奥州藤原氏を率いる御館(みたち)――藤原秀衡と、竜にも一目でわかった。
五十を越える齢(よわい)とは思えぬ若々しさ――。
想像以上にがっしりとした体躯(たいく)に、何とも言えない威厳が満ちあふれている。
その傍らには、これもまた偉丈夫の青年の姿があった。
嫡男の泰衡で、年の頃は京の重衡と同じくらいか、あるいは少し上だろうか……。
一つ咳払いをした吉次に、竜は慌てて道を開け、脇に控えた。
その前を吉次は黙って通り過ぎ、先頭に立って倉の中へと秀衡らを誘(いざな)う。
そして、運び込まれたばかりの無造作に積み上げられたままの荷の一つを開けると、小ぶりの木彫りの仏像を恭(うやうや)しげに取り出して秀衡に示した。
「これはまた優美な……」
秀衡より先に声を上げたのは泰衡だった。
「うむ、見事なものじゃ……」
傍らの秀衡も小さく唸(うな)る。
「これより早速、仏師に命じて箔(はく)を押させまする。一月も経たぬうちに、燦然(さんぜん)と光り輝く様をお目にかけられましょう」
「それは楽しみよのう」
秀衡は満足そうな笑みを浮かべた。
「したが、此度は道中に何ぞあったか? 一月ほど遅れたようじゃが……」
秀衡の問いに吉次は畏(かしこ)まった。
「はい、あれこれとございまして……。近頃は往来の途に盗賊の襲撃を受けることも頻繁になりましたゆえ……」
「……盗賊とな?」
泰衡は思わず身を乗り出した。
「はい。何しろこの平泉の黄金の話は、今や京のみならず東国各地にも隈(くま)なく知れ渡っておることにござりますれば……。たとえ黄金を運んでおらぬ時であっても、安閑(あんかん)とはしておれませぬ。此度も二度ばかり襲われ、危うい目にも遭いました」
「それはまた、難儀なことよのう」
眉間(みけん)にしわを寄せる泰衡に、吉次も神妙にうなずきながら、
「はい……。ですが、此度も何とか全て無事に運べましてございます」
と、これみよがしに胸を張った。
「それは役目大儀であった……」
秀衡はねぎらいの言葉をかけながらも、しかし、その目はとうに吉次や仏像からも離れ、表に控える竜へと一身に向けられていた。
吉次はいささか肩透かしを食ったような淋しさを感じながらも、その目の輝き様を見逃すはずもなかった。
「かねてよりお話致しておりました者にございます。此度は従者の一人として召し連れて参りましたので、一刻も早く御館にお目にかけたく思い、同道致しましてございます」
秀衡の注ぐ眼差しが、うつむいたままの竜にも痛いほどに感じられた。
「面(おもて)を上げるがよい……」
その言葉に竜はゆっくりと顔を上げると、秀衡の目を真っ直ぐに見返した。
「ほう……、これは……」
秀衡も泰衡もそろって目を見張った。
「どこか呂宋(るそん)辺りの者にも似た顔立ちにございますな……」
先に口を開いた泰衡に、秀衡も相槌(あいづち)を打ちながら、
「中々の面構え……。それに良い目をしておる。名は何と申す?」
「竜と申しまする」
「竜か……。その方の風貌に合うた良い名じゃ」
恐縮して竜はさらに頭を低くした。
「何でも、京ではかの平家の館にも出入りを許されておったそうじゃのう……」
「はい」
「平相国殿に会うたことがあるか?」
「二三度、遥か遠くよりお姿を拝したことはござりまするが……」
「いかような人物か?」
矢継ぎ早に問われ、竜も少し言い淀んだ。
「構わぬ。思うた通りのことを申してみよ」
秀衡の向ける思いの他穏やかな眼差しに、竜は少しの安堵を覚えながら静かに見返した。
「その御心は果てしない海のように大きなお方と……」
そう答える竜の目に、秀衡もその言葉以上のものを読み取っていた。
「天下を担う人物だけのことはあると……、そう申すのだな」
竜は従容(しょうよう)として頭(こうべ)を垂れた。
「したが、その方のような異国の者が、いかようにして六波羅にまで出入りが叶う身の上となったのか?」
「この者を召し使っておりますのが、玄武と申す平相国殿の信任厚い商人にございますれば……」
と即座に取り成した吉次に続き、
「筑紫に流れ着いて、そこで玄武の頭(かしら)に拾われました。竜という名もその頭より与えられたものにございます」
竜の受け答えも落ち着いたものだった。
「流れ着いたと申すと……、嵐にでも遭うたのか? そもそも何処(いずこ)より参ったのだ?」
泰衡も俄然興味を持ったのか、続けざまに問い質(ただ)した。が、これには竜も少し困ったような顔をして、
「わかりませぬ……。気がついた時には、筑紫の浦に打ち上げられておりました。それより以前のことは……、何一つ覚えてはおりませぬ」
「覚えていない……とな?」
「何処より、いかようにしてこの国に参ったのか……。未だもって、己が生まれ育ったはずの場所すら思い出すことはできませぬ」
そうと聞いて、急に泰衡は心苦しげに顔をしかめた。
「これは……、余計なことを申した」
「いいえ。今では筑紫こそ我が故郷。そして、玄武の頭にめぐり会った時から私の人生も始まったものと……、そう思うておりまする」
その悠然とした物言いに、秀衡も大いに感じ入った。
「そうか……。それがよい。わからぬことにいつまでもこだわっておっても何も始まらぬ。むしろつらいばかりじゃ……。人はいかなる境遇にあろうと今日を生きて行かねばならぬのだ。過去にとらわれてばかりもおれぬ。明日に目を向けることこそ肝要じゃ」
秀衡の物腰は穏やかでありながら、陸奥の王者らしい風格を存分に漂わせていた。
目前の者に有無を言わせぬ威圧感――、吉次でさえあれほどまでに怖れをなしていた、その訳がようやくわかったような気がした。
そして、一方の秀衡もまた、怖れることなく己をしかと見返す、一見風変わりなこの若者に強い関心を抱かずにはいられなかった。
「竜、その方にこの館への出入りを許すと致そう。これからも時折参って、京や西国の話などいろいろと聞かせよ」
「はっ、仰せのままに……」
竜は深々と頭を下げた。
思惑通り竜が秀衡の心証を良くしたことに、吉次も内心胸を撫で下ろしていた。それは、更なる難題を持ちかけるにはまたとない展開であった。
「御館。実は……、今一人、お目通り願いたい者が……」
秀衡の顔色を伺いながら、吉次もおずおずと切り出す。
「ほう、それは……。よもや鞍馬の何某(なにがし)のことではあるまいな……」
これまでの柔和な表情が一変していた。思わぬ不意打ちに吉次も息を飲んだ。
「先だって、舅殿の許に京の一条大蔵卿長成(ながなり)殿より書状が参ったとかでのう……。妻君(さいくん)の連れ子が鞍馬寺より出奔致し、どうやらこの平泉を目指しておるようなので、くれぐれもよろしく頼むとあったそうな」
「……」
「しかし、何とも迷惑な話じゃ……。源氏の血を引くその者を匿(かくま)うは、京の平家と事を構えることにもなりかねぬ。その方もこのわしの考えをよもや忘れてはおるまい……」
吉次の心底を探るように鋭い視線を向け続ける秀衡に、竜は為政者の厳しい表情を感じ取っていた。それは、京や福原で時折垣間見たことのある平相国清盛の姿にも通じるものがあった。
「はあ、それはもう……、重々承知致しておりまする。この吉次も幾度も無理なことと固くお断り致しておったのでございますが……」
さしもの吉次もしどろもどろになりつつ必死の釈明をする。
「聞けばその者、稀有(けう)なる情の強(こわ)き者とか……。鞍馬の寺でも幾度も喧嘩沙汰を起こし、師の阿闍梨(あじゃり)もほとほと手を焼いたとの風評も耳に致しておる」
「……」
「到底この秀衡の手に負えるものとは思えぬ。よって、そのようなお方に目通りを許すつもりなど毛頭ない。早急に京へお帰りいただき、速(すみ)やかにご出家なされるよう説得致すことじゃな」
「なれど、御館!」
「それ以上申さば、その方の出入りも差し止めるものと、さよう心得よ!」
いつになく激昂(げきこう)している秀衡を前にしては、もはや吉次も引き下がるより他なくなった。
「泰衡、参るぞ!」
「父上!」
足音も高く館へと戻った秀衡に、泰衡も竜を一瞥(いちべつ)しただけで、急ぎその後を追った。
「だから言わぬことではない……。御館は難攻不落の要害。易々とは落せぬ……」
秀衡との息詰まる遣り取りに、精も根も尽き果てたとばかりに、吉次はがっくりと肩を落した。
「わかったであろう、御館のお人のほどが……。こうなることは初めからわかっておったのだ……。それゆえ、同道はできぬとお断り致しておったものを……」
「吉次……」
「あの御館の首を縦に振らせぬことには、どうにも埒(らち)が明かぬ……。いかがしたものかのう……」
吉次は虚ろな目で竜を見上げた。
「俺に言われても……、よくわからない……」
「おい……」
竜もよもやこれほどとは予期していなかった。対面さえ叶えば、後は九郎のあの屈託のない気性をもってすれば、いかに秀衡が頑なであろうとも、いずれそれも解きほぐすことができようと考えていたのだが……。
その第一関門に至るまでもなく、あっさりと門前払いされたとあっては事は容易ではなかった。
「気長に行こう。なるようにしかなるまい」
「やはり、今からでも京へ送り返すより他ないか……」
吉次はすっかり頭を抱えた。
「結論を出すのは早過ぎる。何か手立てがあるはずだ。九郎殿にとっても、御館殿にとっても良い方策が……」
「相変わらず諦めることを知らぬやつだな……。俺はもうどうなっても知らぬぞ!」
捨て鉢に吐き捨てる吉次にも、竜はまるで動じるふうもなく、
「吉次こそ、やけに簡単に諦めるのだな」
そう言われて、吉次は少しムッとした。
「難しいことは元より承知だったはずだ。ここまで来るのに費やした労苦を思えば、ただ一度の言上で退けられたぐらいで引き下がるわけにも行かぬだろう……」
「……」
「それに、御館殿も『即刻送り返せ』とは仰せにならなかった。ならば、まだ望みもあるのではないのか?」
その一言で、吉次の顔色にもわずかに赤みが差した。
「御館殿の力をもってすれば、九郎殿を追い払うなど簡単なことのはず。それを説得しろと……。つまり、吉次の裁量に任せたということになる。御自身は見て見ぬふりを通されるおつもりだろう」
「……」
「先ほどのお言葉を借りれば、九郎殿が説得して素直に聞き入れるようなお方でないことは御館殿もよくご承知下されている。当分はこの平泉に逗留されるのも止むを得ないものと特にお咎(とが)めにはなるまい。とりあえずはこれで時を稼げる」
「……」
「時をかければ、そのうち良い方法も見つけられるだろう……」
立て板に水のような竜の淀みない話し振りに、いつしか吉次も腕組みしながら感心していた。
「おまえにはかなわぬな。いつの間にそんな悪知恵が働くようになったのだ?」
竜は何食わぬ顔をして、笑みさえ浮かべていた。
「そうまで言われては俺も逃げるわけには行かぬな……」
立ち直りの早い男である。秀衡に一喝された後の萎(しお)れ様も、とうにどこかへ消え失せていた。
「しかし、そうなると……、いかに九郎殿を押し留めるかだな。お目通りなど簡単に叶うものと思っておられるだけに、さぞかし気落ちなされよう……」
九郎の落胆ぶりが目に浮かぶようで、この時ばかりは竜の表情にも翳(かげ)りが差した。
「それでも、ありのまま申し上げるよりほかないだろう。ここは何としても耐えていただかねば……」
「それしかあるまいな……」
吉次もこれには同意した。
「御館殿と九郎殿の根競べ――。先に折れれば、九郎殿は行き場がなくなる……」
「確かにな。現実には今さら鞍馬に戻すことなど無理な話。出奔のこととて、とうに六波羅にも知れていよう。下手をすれば首を刎(は)ねられる……」
そもそも出家してこそ、保証される命ではなかったか……。その出家を拒み、平家に反旗を翻(ひるがえ)す志をも内に秘める九郎の命運は、もはや陸奥の王者たる秀衡の手の中にあると言っても過言ではなかった。
秀衡が受け入れればそこには洋々たる前途が開けるものの、もし追放されれば……、それはもはや九郎にとって死の宣告にも等しい。
「九郎殿のためにも、これは世情の厳しさを知る良い機会やもしれぬ。あのお方はどこかで、いつでも何でも己の思い通りになると、高を括(くく)っておられるところがあるからな……」
吉次はすっかり、いつものしたたかな商人の顔を取り戻していた。
「しかし、このことについて、竜、おまえは一切何も申すな。全て俺の口から申し上げる。憎まれ役は俺の方が適任だろう。九郎殿のためにもその方が良い……」
苦笑いを浮かべて言う吉次に、竜はいささか心苦しい思いを抱きながらも、それでも最後はこれに黙ってうなずいた。
| |