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「遅かったではないか!」
帰りを今か今かと待ち侘びていた九郎は、二人の顔を見るや思わず駆け寄って来た。
「いかがであった?」
願いは叶うものと……、そう信じてやまない九郎の純真さを前にしては、覚悟していたはずの吉次もつい言い淀んだ。その思いは竜とても同じであった。
「御館(みたち)にはいつお目にかかれるのだ?」
いつまでたっても、何の答えも返さない二人の冴えない表情に、九郎の不審も自ずと募る。
「いかがしたのだ?」
「九郎殿、お目通りは叶わぬ」
吉次がようやく重い口を開いた。途端に九郎の顔つきが険しくなった。
「……どういうことなのだ?」
「御館には何があっても九郎殿にはお会いにならぬと……、さよう仰せじゃ……」
「そのような……」
九郎は明らかな動揺を見せた。
「京より便りがあり、此度の平泉入りは御館も既にご存知であられた。何しろ、九郎殿の母御(ははご)常盤殿の今のご夫君(ふくん)であられる一条大蔵卿と、御館には舅にあたる大殿とは遠縁にあたられる。その縁にすがり、取り成しを頼んで来られたそうじゃ……」
吉次は秀衡に告げられたことをありのまま具(つぶさ)に語った。しかし、それを聞く九郎はたちまち顔を紅潮させ、わなわなと肩を震わせ出した。
「余計なことを!」
「常盤殿にしてみれば、九郎殿の身の上をよくよく御案じ召されて……」
その怒りの程を察し、吉次は慌てて諌めようとしたがもはや手遅れだった。
「それが余計なことなのじゃ!」
吐き捨てるように言い放った九郎を、一同は複雑な思いで見つめた。
「何かと言えば私のためと……。子の命を救うために敵将に身を任せ、その子が厄介払いをした鞍馬の寺より出奔致せば、また誰彼と見境なく泣きつかれる……。まるで、この九郎のために不幸な生涯を送っておると、世に触れ回っているようなものではないか! もううんざりだ!」
怒りに狂う九郎の、その言葉の裏側にある悲しみが竜の胸にも迫った。
「されど……、そんな母御恋しさゆえに、こっそりお訪ねしてはお姿を垣間見ておられたのは、どこの童にございましたかな?」
ふいに鬼若が独りごちた。
「桜舞い散る春の宵、月冴え凍る冬の夜――。幾度となく足を向けられて……、しかし、お声をかけることすら叶わぬまま……」
「鬼若!」
九郎は文字通り鬼のような形相で、鬼若を睨みつけた。しかし、当の鬼若は鷹揚(おうよう)に構えたままだった。
「よいではありませぬか。母が子を案じ、子が母を慕うはごく自然なことなれば……。何も恥ずかしいことなどありますまいに……」
慰めとも、からかいともつかぬ鬼若の言に、とうとう九郎も居たたまれなくなって、プイっと宿を飛び出して行った。
「九郎殿!」
「放っておけばよい!」
後を追おうとする竜を鬼若が制する。
「所詮はまだ子供なのじゃ……。母御が恋しゅうてたまらぬのを必死に堪(こら)えておられたのが、思いがけずその名を聞かされ、我を失うてしまわれただけのこと……。外の風にでも当たって、少し頭を冷やされればよい……」
が、皆まで聞かず飛び出して行った竜を、鬼若はニヤリとして見送った。
「おぬし、図体(ずうたい)ばかりの者かと思うておったが、九郎殿のことにかけては、存外ようわかっておるようじゃのう……」
吉次は感心したように鬼若を見上げた。
「某も母との縁薄い身の上であったゆえな……。したが、それ以前に、殿は表も裏も無い、真っ直ぐなご気性なれば……。某でなくとも、誰にでも容易に察しがつこう」
「違いない……」
吉次も笑ってうなずいた。
「後は竜が何とかしてくれよう……。殿を元気にするすべはよう心得ておる。まあ、某にはどうにも真似のできぬ芸当だが……」
そう語る鬼若の表情にはどこかしら淋しさが漂っていた。
「嫉(ねた)ましいか?」
まじまじと顔をのぞき込む吉次に、
「うん? ああ、嫉ましいとも。女子(おなご)に夢中になられる分には一向に構わぬが……、男が相手では始末が悪い。それも片恋となればなおのこと……」
冗談めいた物言いの中にも、鬼若の本心が垣間見られた。
男と女の色恋とは異なる、人が人に惹かれるその心――。
九郎の竜に対する一途な思いを誰よりも……、あるいは当の九郎以上に感じ取っていたとも言えた。それはとりもなおさず、鬼若自身が九郎という人物に強く惹かれているその表れでもあった。
「それにしても、何とも不思議なやつじゃ……」
「……何が?」
「竜に決まっておろう……」
吉次は首をひねる。
「あの者には欲というものがないのであろうか……」
「……」
「人は欲を食ろうて生きておるもの。それを、夢だの希望だのと聞えの良い言葉にすり替えてな……。しかし、あいつを見ておるとそのようなものは少しも感じられぬ……」
聞きながら吉次も小さくうなずいた。
「欲というやつは、ほんの少し手を伸ばせば手に入れられる……、そういうものでなくては意味が無い。腹一杯食いたい……、出世がしたい……、天下を取りたい……」
「……天下だと?」
鬼若は目を丸くした。
「まあ、おぬしにはいくら手を伸ばしても無理であろうが……」
吉次が鼻で笑うのを見て、鬼若は少しムッとした。
「己の努力次第で実現できると思えばこそ、人はそれを成し遂げるために躍起にもなれる。そういうものだろう?」
「それは……。まあ、そうかもしれぬな……」
鬼若も曖昧ながら相槌(あいづち)を打つ。
「したが、竜が真に望むものは……、どう足掻(あが)いても手に入りはせぬ」
「……」
「それがわかっているからだろう。あいつはどこかで己の人生を諦めている。何をしようと、その心が満たされることはない……とでも言いたげにな。昔から欲らしい欲を持たぬやつだったが、今の竜であれば、己が大事と思う人間のためになら、命すら平気で投げ出してしまうに違いない……。それこそ、木曽で九郎殿を守ろうとしたようにな」
鬼若は神妙な面持ちで聞き入っていた。
「誰かの願いを成就させるために、己の持てる力の限りを尽くす……。今あいつは、そうすることでしか己を生かす道を見出せぬのやもしれぬ……」
そこまで聞いて、鬼若は思わずため息をついた。
「何やら悲しい話よのう……。人のためにしか生きられぬか……」
「全くな……。だが、そんなあいつだからこそ、人の心を動かすこともできるのやもしれぬ。九郎殿然り、おぬしも、かく申すこの俺自身も……、ここしばらくの間に随分と変わった……。そう思わぬか?」
鬼若も納得したようにうなずいた。
「あの御館の御心を変えるとすれば、やはりここは竜を頼みにするしかあるまい……。それゆえ、今日も御所へ連れて参ったのだ。そして、案の定、御館は竜を気に入られた……」
「目通りが叶わぬ以上、我らは動けぬ。全ては竜にかかっておる……ということだな」
「そういうことだ」
二人の考えもそこにようやく落ち着いた。
「ならば、その時まで旨酒(うまざけ)を浴びるが如く食らって、のんびりと眠って待つと致すか……」
鬼若はそう口にしたそばから、瓶子(へいじ)に手をかけていた。
「これは気をつけねば……。おぬしにかかっては、倉の大甕(おおがめ)も一夜にして皆空になってしまうやもしれぬ……」
「お望みならば、そうさせてもらおうかのう……」
吉次の冗談とも本気ともつかない物言いを、鬼若は豪快に笑い飛ばした。
「それにしても、竜が真に望むものとはいったい何なのだ? 天下を取るよりも難しきものなど……」
何気なくつぶやいた鬼若に、吉次の顔から見る間に笑いが消えていた。
「天下ならば……、既に竜の手の中にあるそうな。それを引き換えにしても……、恐らく手に入れることはできまいな……」
途方も無い吉次の返答には、鬼若もただ唖然とするばかりであった。
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