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「静かにございますな……」
竜は心を落ち着けるように、一度大きく息を吐(つ)いた。
「ただ草深きばかりの里にござります」
森房は粛々と答える。
「しかし、この陸奥の国にあって、太刀を打つには最も適した土地と……」
「この近くには良き砂鉄を産する場所がござります。我らが祖先がそれを見つけ、ここに移り住んで百年余りになりまする……」
奥州蝦夷刀の中でも極上の品とされる舞草刀(もくさとう)――。
その伝統を真に受け継ぐ者たる誇りが、森房という人間をひときわ輝かせていた。
「卒爾(そつじ)ながら……、森房殿にとって太刀とは何にござりますか?」
意表を衝かれ森房は少し驚きながらも、別段、不快がる様子もなく一しきり考え込んだ。
「さようでございますな……。月並みな言葉で申し訳ないが……、某の魂にございます」
「魂……?」
「己の持ちうる力の全てを一振りの太刀に込めまする。それこそ精も根も枯れ果てるまで……。ゆえに、一振り打ち終えると、しばらくは立ち上がることすらままなりませぬ」
竜にも得心がいった。あの見事なまでの太刀はまさしく一朝一夕で成る技ではない。
「ならば……、そうまでして作られた太刀が、紛(まご)う方なき人の命を奪う道具であることには何と思われますか?」
以前、秀衡に尋ねたのと同じ問いを森房にも投げ掛けてみる。
「京に献上される太刀のほとんどは、今や都人の虚栄を満たす装飾でしかありませぬ。その精魂込めて打ち鍛えられた刃にもさほどの価値を見出されこともなく……。しかしながら、真の太刀がいったい何のためにこの世に存在するのか……、そこから目を背けるわけにもいきますまい……」
「……」
「森房殿の太刀には刀工しての誇り、その高潔なお人柄をも偲ばれまする。人を殺(あや)めるものとは思えぬ、美しい輝きすら感じられて……。しかし、極限の中でひとたび太刀を手にすれば、夜叉の心生まれるのもまた人の世の道理――。現に罪なき民が刃の犠牲となって命を落とす例もいかに多いことか……」
竜は未だに納得できずにいた。秀衡の言葉も結局はその場の一時凌ぎでしかなかった。どこかで妥協したに過ぎない。時が経てば、その心も再び迷いの渦に引き戻されていた。むしろ、柾房(まさふさ)と関わったことでいっそう矛盾する思いを強くしたとも言える。
ゆえに、あるいはこの森房ならば、実のある答えを導き出してくれるのでは……、そんな強い期待をかけての問い掛けでもあったのだが……。
「殺戮(さつりく)に用いられるなど元より望まぬこと。某とて思い悩んだ頃もありました。刀工たるもの、一度は通らねばならぬ道にございます。技を極めれば極めるほどに、人の命の重さもまた思い知らされて……。したが、それを乗り越えてこそ、ようやく一人前の刀工となれるのでございます」
「……」
「某は生まれながらの刀鍛冶――、これ以外に生きうる術(すべ)を持ちませぬ。なればこそ、いつも己の打つ太刀が世の暗雲を切り裂き、天下に光もたらすことを念じておりまする……」
「……世の暗雲を切り裂く?」
「詭弁(きべん)と申されるかもしれぬが、太刀が人を斬るのではありませぬ。要はそれを手にする人間の胸一つ……。ならば、人の中に巣食う醜き心をこそ斬る――。そのような太刀を生涯かけて打ち続けることが某のなすべきことと……、さよう心得ておりまする」
森房の力説に竜は真摯(しんし)に耳を傾けていた。
「醜き心を……。御館殿も同じことを仰せにございました。人を守るためにも太刀は必要だと……。そして、命奪う道具となるかどうかは、それを手にした人間次第だとも……」
「怖れ多いお言葉にございます……」
森房は恭しく頭(こうべ)を垂れた。
「しかし、諍(いさか)いを生み出すのは人を嫉(ねた)み憎む……、そんな醜き心ばかりとも申せますまい。時として、人を愛し思い遣る……、そんな尊き心とても、ほんの少しの行き違いから思わぬ災いの種となることもござりましょう……」
「……」
「互いの思いを伝え分かり合えれば、何の争いにもならぬものを……。太刀はその思いをあふれるほどに語っております。なのに、なぜそれを自らの口では伝えようとなさらぬのか……」
「……」
「森房殿も柾房殿も、互いの心をその太刀に読み取っていながら、それでもなお歩み寄ろうとはなさらない……。このままでは思いが隔たるばかりにございます。今ならまだ間に合いまする。その心、柾房殿に開いて見せ、柾房殿の心もまた、しかと御覧になってみて下さりませ……」
森房は竜の勢いにすっかり気圧されていた。
「柾房殿は今、刀工として大きな岐路に立っておられます。そして、森房殿とてその心の迷いも何もかもご承知のはず。ならば、手を差し伸べてやって下され……。どうか進むべき道を指し示してやって下され……」
深々と頭を下げる竜に、森房はわずかに瞠目(どうもく)して、やがて静かに口を開いた。
「あなたも……、己の道に迷うておいでか?」
竜は驚いて森房の顔を見上げる。
「いや、ふとそんな気がしましてな……」
森房の表情にも戸惑いの色が浮かんでいた。
「ずっと迷い続けております……。幾度も壁にぶち当たって血を流し……、それでも止まることもできずに……」
胸の内を素直に表す竜に、森房も共感したように小さくうなずく。
「しかし、血を流せば流しただけ、得るものもあるはずにござります」
「……」
「己の力で立ち上がってこそ見えるものがある……。今ここで某が手を差し出したのでは、柾房はこの苦難を乗り越えたことにはなりませぬ」
森房の言葉には、厳しさの中にも深い思い遣りの心も感じられた。
「されど、人は弱きものにございます。突き放されて一人では立ち上がれませぬ。むしろ、己一人の力で立ち上がったと思うは人の奢(おご)り――。影でそれを支える者の存在を見過ごしているだけのこと……。些細な一言、心遣い……、森房殿にも思い当たることがきっとおありのはず……」
「……」
「強き振りをし続ければ、いつか、その強さが身に付くものやもしれませぬ……。しかし、だからと申して、人の弱さを論(あげつら)うは、取りも直さず己の弱さを嘲(あざけ)るに等しきことにござります」
森房も明らかな動揺を見せた。
「柾房殿に刀工を辞めることなどできはしませぬ。この三月近くというもの、そば近くでずっと見て参りましたが、その心の奥底にある太刀に対する熱い思いは、今なお少しも色褪(いろあ)せてはおりませぬ」
「その通りじゃ!」
突然の声に驚いて振り返ると、九郎が柾房と共に立っていた。
「兄様!」
いつの間にか戻って来て、竜と森房の話を影で立ち聞いていた小菊が真っ先に驚きの声を上げた。
「九郎殿……」
呆然と見返す竜に、九郎は静かにうなずいてみせる。
「ほら、柾房。己の思いを正直に申せ」
九郎に促され、柾房はおずおずと進み出た。
「俺は……」
言いかけたものの、森房の鋭い眼光を前にして柾房もつい口籠もる。
「何じゃ、師を前に怖気(おじけ)づいたのか? 先ほどまでの勢いはどうした!」
九郎の叱咤に、柾房もようやく腹を括った。
「親父殿……、いや、頭領! 某が間違うておりました!」
柾房は急にその場に膝をつき額(ぬか)ずいた。
「どうか今一度、太刀を打つ機会を与えて下され!」
「兄様……」
「どんなに遠ざかろうと、この身に染み付いたものは簡単に消えはせぬ……。この手がどうしても言うことをきかぬのじゃ……。薪(まき)を割る鉈(なた)を手にしていても、馬の手綱を牽いておっても、『槌(つち)を握りたい……』『太刀を打ちたい……』、そう申してきかぬ……。この思い断ち切ることのできる太刀でも打たぬ限り、刀鍛冶を辞めることすらできはせぬ……」
柾房の精一杯の言を耳にしても、森房はなお頑なな態度を崩そうとはしなかった。
「森房殿。我は源九郎義経と申す。今の柾房の言葉に何ら嘘偽りも無い。この九郎からも頼む。どうか許してやってくれ……」
そう言って、九郎も頭を下げた。
「父上! 私からもお願い致します。どうか、兄様をお許し下さりませ!」
柾房の傍らで同じように額ずく小菊にも、森房は目を伏せ、依然として沈黙を通した。
「俺はこれまで、切れ味の良い太刀を……、そればかり考えておった。そのくせ何を斬るものか……、そのことはまるで眼中になかった。それゆえ偶然とは申せ、人斬りの場に出くわして思わず我を失うてしまった……。草木であれ、獣であれ、鋼であれ、目に見えるものを斬ることにばかりとらわれておいて、人が斬られることを考えもしなかったとはとんだお笑い草……。竜、あんたの言った通りだ。俺の打った太刀は血の臭いがして当然じゃ……」
自嘲的に語る柾房を竜は無言で見つめた。
「ならば、今度はいったいどんな太刀を打つつもりか?」
ここまでずっと押し黙っていた森房が、ようやく重い口を開いた。
「それに答えられぬ限り、ここに戻ることまかりならぬ!」
森房の厳しい口調に、柾房は再び居住まいを正してその顔を見上げた。
「人が背負う悲しみ、苦しみ、憎しみ――。人が人である限り逃れられぬあらゆる業(ごう)を断ち切る……、そんな太刀をこの手で作りたいと思うております」
柾房の目にこれまでの甘えのようなものは一切見えなかった。それは森房もすぐに感じ取っていた。
「そのような太刀、真にできると思うてか?」
「わかりませぬ……。目に見えぬものを切ろうなどと……、生涯かけてもできぬやもしれませぬ。それでも、今後、人斬りの道具と念じて打つことだけは決して致しませぬ! 刀鍛冶の誇りにかけてこれだけはしかと誓いまする!」
そう力強く答えて、柾房は額を大地に擦りつけた。竜も九郎も森房の顔を黙って見つめた。
「今申したこと、決して忘れるでないぞ……」
「それは……」
柾房はやにわに身体を起こし、森房を見上げた。
「おまえのその心に描く太刀――、この森房も見てみたいものじゃ……」
森房の表情にもようやく穏やかな笑みが浮かんだ。小菊は感極まって泣き崩れ、柾房が慌ててそれを抱きかかえた。その姿に竜も九郎と安堵の思いでうなずき合った。
やがて、森房はゆっくりと竜に向き直った。
「あなたの言われた通りじゃ……。人は壁に突き当たった時、一人では乗り越えられぬ……。某は己一人の力で乗り越えたものと、そう自負しておりました。しかし、柾房があなたやこちらの九郎殿の助けを借りてどうにか乗り越えようとしているように、かつての某にもまた、己を支えてくれる者が確かにおりました。それは亡き妻であり、幼い柾房や小菊であり……。そのことに、この歳までとうとう気づかずに来てしもうた……。この森房の打った太刀は、さぞや人の傲慢な心を映しておりましたでしょうな……」
「森房殿……」
「柾房のことを心の弱い、情けなきやつと愚弄(ぐろう)いたしておったのは、まさしくこの森房自身の愚かさに他ならなんだ……。そんな愚鈍の身が柾房を許すなどと……、とても申せた義理ではない……」
「親父殿……」
いつも厳しかった父が初めて見せた弱気に、柾房もいささかうろたえた。
「愚かで結構ではないか……」
ふとつぶやいた九郎に、森房も柾房も顔を見合わせた。
「愚かと気づけば、それを正せばよい。なあ、竜……」
言われて、竜も黙ってうなずく。
「この九郎も愚かな人間じゃ……。我が命救うために、どんな辱めにも耐えてこられた母上の苦しみを顧みようともせず、悪口雑言の限りをつくした。周りの諌める声にも耳を貸そうともせず……。そうまでして、生き長らえたくもなかったと、怨み心を抱き続けておった……。真に愚かであった……。だが、今は違うぞ。その身を投げ出して、この九郎をお守り下された母上に心から感謝しておる。こうして生きておればこそ、皆と出会えたのだからな。いつの日か孝養を尽くせる時が来ればよいと……、今はただそれだけを念じておる」
母常盤への怨み言を並べていた頃とは、別人のような顔がそこにあった。この半年近くの間、共に過ごして来た竜には何よりそれがよくわかった。
「森房殿も柾房も、次に目指すべき太刀の有り様が見えたのなら、その愚かさも無意味ではなかったのではないか?」
森房は静かにうなずいた。その傍らで柾房も泣き笑いを浮かべていた。
「この九郎も是が非とも見てみたいものじゃ……。人の生身の身体ではなく、業を断ち切るというその太刀を……」
最後にそうつぶやいて九郎は目を輝かせた。
しかし、その言葉の奥底に隠された真意には、森房も柾房も、他ならぬ竜でさえもまだ何も気づいてはいなかった。
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