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国衡は自らの西木戸(にしきど)の館に竜を連れ帰ると、すぐさま御所詰めの薬師(くすし)を呼び寄せ治療に当たらせた。
落馬したのが柔らかい草の上だったことも幸いして、怪我そのものは思いの外軽くて済んだ。が、挫(くじ)いた足がひどく腫れ上がり、とても歩ける状態ではないため、ともかくその夜は館に留め置かれることとなった。
「どちらが怪我人かわからぬな……」
一旦薬師の見送りに出て、すぐに戻って来た国衡は、正体無く眠りこけている忠衡を竜が介抱しているのを目にして思わず苦笑した。
「お疲れになったのでございましょう……」
竜も忠衡の寝顔に目を遣りながら穏やかな笑みを浮かべる。
「自分から今宵はずっとそばについておるのだと申しておきながら……、何とも頼りにならぬやつじゃ……」
国衡も傍らに腰を下ろし、すっかり呆れた様子で忠衡を眺めていたが、やがて、その視線を竜に移した。
「おまえには世話をかけた……」
「……」
「兄として礼を申す」
急に改まった口調になった国衡に竜は戸惑いながら、何かしらいつもと違うものを感じてこれを訝った。
「もし、忠衡に万一のことがあれば、わしは腹を切っても詫び切れぬところであった……」
国衡の思い詰めた横顔を、竜は無言でじっと見つめた。
「泰衡に勝負を挑んだのじゃ……。その弓比べの最中に、忠衡は我らの目を盗んで黙って駒に乗り、思いがけずあのような仕儀と相なった……」
「……」
「勝負にとらわれるあまり気づくのが遅れた……。わしが弓比べなど言い出さねば……、忠衡も、ましてやおまえまでもこのような目に遭わせることはなかった。この通りだ、すまぬ……」
国衡は手をついて頭を下げた。これには竜も慌てた。
「何をなされまする! どうかお手をお上げ下さりませ!」
竜が言うのにも、国衡は一向に耳を貸そうとはせず、なお身体をかがめたまま、
「おまえが見抜いた通りじゃ……」
「……」
「わしの中の泰衡に対するわだかまり――。兄でありながら、弟の下に置かれることへの不満をどうにもこの胸の内から追い遣ることができず……。せめて弓矢の技で泰衡を負かせることでもできれば、少しはこの溜飲(りゅういん)も下がろうかと……、何とも浅はかな考えじゃ……」
胸に抱える苦悩をありのまま口にする国衡に、竜は神妙な面持ちで黙してそれを聞いていた。
「わしは生まれて来る時を誤った。己の蝦夷(えみし)の生まれという運命を覆せぬのなら、せめて泰衡よりも後に生まれておれば……」
「国衡殿……」
「二人の立場が逆であれば何の不都合もないものを……。天も罪なことを致す。我ら兄弟を苦しめ、楽しんでおるようじゃ……」
薄ら笑いを浮かべる国衡に、竜はかける言葉も見つからず、無言のままうつむいた。
何かにつけ厳しく定められる人の格付け――。
公卿、殿上人、武士――、それぞれの中にあっても上位下位と、さらには同族にあっても嫡流傍流と、人が人を区別する物差しは枚挙にいとまがない。
従える者と従わされる者――。この当世、人として生まれて来たからには、決して避けて通ることのできないこのしがらみが、血を分けた兄弟の間に悲しい確執をもたらしていた。そして、醜い争いを避けようとすれば、いかに理不尽極まりないことであろうと、下につく者が引き下がるより他ない。
この世の不条理を憤る思いを抱きつつも、それに抗った先にあるものもまた悲しみであることを、今の竜は悟っていた。
「国衡殿は……、もしもご自身が御館殿となられたなら、何をどうなさりたいのでございますか?」
「何? このわしが御館なら……だと?」
竜の突然の問い掛けに、国衡は唖然とした。
(生涯その座に縁の無い我が身に、何を世迷い言を申すか……)
思わず憮然とする国衡にも、竜はただじっと答えを待っている。国衡は仕方なく目を伏せ、自らの心に問い掛けてみた。己の真に欲するもの、願うもの、そして理想とする御館の姿を……。
それは何とも不思議な感覚だった。
心の底から沸々と沸き立って来る思い――。
不遇を託つ日々を送って来た自分に、まだ、こんなにも夢見る心が残っていたとは……。ふいに、長い間忘れていたものを取り戻したような……、そんな胸の弾む心地さえしていた。
「もし、わしが御館とならば……、この陸奥の国を何ものにもとらわれぬ、真のこの世の楽土に致したい。蝦夷(えみし)も大和(やまと)もない、同じ人という生き物が共に手を携えて生きて行ける……、そうした国と成したい……」
「……同じ人という生き物?」
尋ね返す竜に、国衡は身を乗り出して大きくうなずいた。
「そうとも……。猪や狼が相手ならばともかく、言葉を話す紛れもない人同士ぞ。腹を割って話し合えば、分かり合えぬはずもなかろう」
語るほどに国衡の顔が上気して来る。
「大和だの蝦夷だのと互いの優劣を問うことなく、いっそ、そんな枠組みすら全く存在しない、まさしく自由なる民の住む都――、それがこの国衡の望みじゃ……」
陸奥の国を、蝦夷の民を愛する思い――、我が胸の内にあるのはただその一事のみ。それを今こうしてはっきりと口にしたことで、これまで抱え続けて来た鬱屈も俄かに消え失せて行く思いだった。
しかし、そんな熱い思いに心を震わす国衡を前にしながら、竜の瞳はさざなみすら立たずなおも穏やかなままだった。
「それは……、御館殿でなければできぬことでござりましょうか……」
「……?」
「今の国衡殿のままでは無理にござりますのか?」
竜の投げ掛ける言葉は、一度は熱く燃え上がった国衡の心をたちまちに冷めさせた。
「頂きに立つことだけが全てではありますまいに……」
愕然とする国衡をよそに、竜は静かに語る。
「いくら御館殿とて、ただ御一人の力で何もかも変えられるものではありますまい。その下で手足となって働く者の力なくして何を成せましょうや。むしろ、それこそが真に国を動かす力と存じまする。国衡殿の思い描く国の有様――、自らの力で御館殿を動かし、現実のものとなさればよろしいではありませぬか」
「……わしが御館を動かすだと?」
「それがおできにならぬのであれば、御自身が御館殿となられたとしても、とても家臣を動かすことなど叶いますまい……」
思いがけず手厳しい物言いをされ、さしもの国衡もたじろいだ。
「無茶を申すな……」
国衡のうろたえ様を見つつ、竜はさらに続ける。
「御館殿は国を照らす光――。ならば、国衡殿は水となられませ」
「……水だと?」
「日の光だけでは稲も実りませぬ。大地を潤す水が無ければ萎れ、やがては枯れてしまいまする……」
「……」
「光も水も、どちらか片方だけでは何物も生み出すことはできませぬ。二つが並び立って初めて大いなる恵みをもたらすものにございます。それは国の営みとて同じこと。光たる泰衡殿、水たる国衡殿――、お二人がそれぞれの力を尽くしてこそ、この美しく豊かな陸奥の国に、よりいっそうの栄えをもたらすことができましょう……」
竜の強い目の光を前に、国衡はようやく何かを悟ったような気がした。
「頂きに立たずとも、己を生かす道はあると……?」
竜はうなずく変りにじっと国衡を見つめ返す。
「確かにわしは立場にばかりこだわって、真に大切なことを見落としておったのやもしれぬ……。何を望み、何を成すべきか……。泰衡の下に置かれると思うからこそ腹も立つ。わしの思いを説き、その道に泰衡をこそ導く……。さすれば、このわしの望む通りの国にすることもできるか……」
付物が取れたように、国衡の心は俄かに晴れ渡った。
「なれど、いかなる偉業も泰衡殿の手柄となりましょう。国衡殿御自身の御名はどこにも残らぬやもしれませぬ」
「それで良い。死んで名を残したところで何となる? わしにとっては、今を生きるよすがこそが大事なのじゃ……」
「……」
「唯それだけのことを……、そうと思い至るまでに斯程(かほど)もかかろうとは……。長き時を無駄に過ごして参った。おまえに出会わずば、あるいは一生悟れずに終わったやもしれぬ……」
「国衡殿……」
「わしのこだわってきたことが、いかにつまらぬものであったか……。おまえはそれを身を持って知らしめてくれた……」
「何を仰せになられます。国衡殿とて『争いなど何の徳にもならぬ』と……、さよう仰せになっておられたではありませぬか。この下賎の身の致すことに、何ほどの力がありましょうや……」
この時国衡は、竜の中に人の心の垣根を容易に取り除く不思議な力を感じていた。それは高く頑強なる砦(とりで)を誇る父秀衡の牙城(がじょう)さえも、その力の前には脆くも崩れ去るであろう、そんな確かな予感を抱かせた。
「ところで、先ほどの小冠者(こかじゃ)だが……、あれが源氏の御曹司か?」
急に思い出したように、国衡が九郎のことを口にした。
「はい。九郎義経殿にござります」
「御館の悩みの種だな。京へ送り返せと厳命を受けておるはずであろう。いかが致すつもりだ?」
「九郎殿の望みはこの平泉に迎え入れられることなれば……、微力ながら、御館殿にお認めいただけるよう力を尽くすのみにございます」
淡々と答える竜に、国衡は一つため息をついて、
「難しいぞ……。あの御館を説き伏せるのは……」
「よう存じておりまする」
事もなげに言う竜を見て、国衡は苦笑しつつうなずいた。
「おまえにならできるやもしれぬな……」
「……」
「したが、何よりもまずその怪我を早う治すことだ。親父殿に対するのはそれからのこと。とても一筋縄では行かぬ御仁だからのう……」
思いも新たに互いを見交わす国衡と竜。
と、その時、傍らで眠り込んでいた忠衡が、ふいに何やら寝言を口にした。それを聞いて、二人も急におかしさが込み上げて来た。
「暢気なやつめ……。全く世話の焼ける!」
国衡は軽々と忠衡を抱き上げて、そのまま立ち上がった。
「ともかく今宵はゆっくりと休め。何ぞあったら遠慮はいらぬ。いつでも声をかけよ」
そう言い置いて、国衡は忠衡を抱えて部屋を後にした。
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