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「いかがなされましたのか?」
日暮れ時に一人で宿に戻って来てからというもの、夕餉(ゆうげ)にも姿を見せず、部屋に閉じ籠って何か一心に考え込んでいる九郎に、鬼若は散々迷った挙句ようやく声をかけてみた。しかし、九郎はなおも黙り込んだまま何の答えも返さない。鬼若は憮然としながらも、それ以上問い詰めることもできず、無言でその場に腰を下ろした。
「鬼若……」
「何でございますかな?」
ようやく聞き取れるほどの小さなつぶやきにも、鬼若は即座に反応して九郎と向き合った。
「竜は……、真に人という生き物が心底好きなのだな……」
その意味を解しかねて、鬼若も首をかしげる。
「竜にとって特別な誰かなどない……。困っている者を見れば、誰であろうと何のためらいもなく助けようとする……」
「殿……」
「理屈ではないのだ。誰かの危機を目の当たりにすれば、本能で瞬時にそれを救うための行動を起こす……。あの時、暴れ馬を見ても私には何もできなかった。と申すより、何をどうすればよいのか、まるで思いつきもしなかった。しかし、竜は声を上げるより先に流星にまたがり、後を追っていた……。あのまま忠衡殿が馬に乗ったままでは危ない……。そんな簡単なことにも、この九郎は頭がいかなかったと申すに……」
半ば悔しさも滲(にじ)ませながら項垂(うなだ)れる九郎に、鬼若はかけるべき言葉を探した。が、今は何を言った所で、その深く沈む心を浮き立たせることはできそうにもない。
「して……、竜は大丈夫だったので?」
「ああ。泰衡殿のお話では、薬師(くすし)にも見せたが大事ないと……」
「それは何より……。もっとも、あの竜ならば、殺してもそう簡単に死にそうにはありませぬがな……」
鬼若の豪快な笑い声も、九郎に笑顔を取り戻すことはできず、ただ虚しく響き渡るばかりだった。
「そばについておられたかったのではありませぬのか?」
九郎の心中を思うと、鬼若も胸が痛んだ。
「私は未だ御館(みたち)にお目通りの叶わぬ身だ……。御所はおろか、西木戸殿の館とておいそれと立ち入ることは許されぬ」
ようやく九郎も己の置かれている状況を悟ったのだった。吉次の好意でこれまで何不自由なく日を過ごして来たものの、この平泉にあっては御館――秀衡の存在は絶対なのである。その秀衡が自分を認めぬ以上、何でも思い通りに行くはずはなかった。
「今宵は忠衡殿がそばについておられよう。木曽での私のように……」
「あの時は参りましたな……。眠ることも膳を取ることも拒まれ、片時も竜のそばを離れようとなさらぬ殿の頑固さには、某もほとほと弱り果てましたからな……」
そう言って苦笑を浮かべる鬼若の傍らで、九郎はいっそう暗い面持ちになっていた。
「木曽で竜はその身を楯にして私を助けてくれた……。それゆえ竜にとってこの九郎は特別な人間なのだと……、そう信じて疑いもしなかったのだ。今にして思えば何と思い上がったことを……。あの竜の心を独り占めにできる人間などいようはずもないものを……」
「……」
「今日はよくよくそれを思い知らされた……」
守り育ててくれるはずの二親を幼くして奪われ、誰かに甘えることも知らずに育った九郎にとって、竜は初めて得た心の拠り所だった。だからこそ何としても失いたくはない……、ただ己一人のものとしたい……。
しかし、そんな子供じみた強い独占欲も、あの竜の大きな心を前にしては、何ら通用するものではないことに気づかされた今、九郎の胸にひどく空虚な思いが広がっていた。
「お淋しゅうございますか?」
涙を見せまいと顔を背ける九郎に、鬼若は静かに問いかける。
「しかし、そんな竜なればこそ、殿はお好きなのではございませぬのか?」
九郎の肩がわずかに震えた。
「人のために平気で身を投げ出して……。見ているこちらがいつもハラハラさせられまする。されど……、もしも竜が己可愛さに忠衡殿の窮地をも見過ごすようなやつであったなら、果たして何と思し召されますかな?」
「……」
「殿が竜を独り占めにできぬと嘆かれるそのお気持ち、この鬼若にはようわかりまする……。全く、我が恋敵(こいがたき)はとてつもないやつで、この武蔵坊弁慶もまるで歯が立たぬ。殿の御心をかくも悩ませ申して……、真、恨めしい限りじゃ……」
九郎が目を剥(む)いて鬼若の顔を見返す。
「したが、かく申す某とていつの間にやら魅入られて……、何とも奇妙な心地じゃ……」
「鬼若……」
「人の心は己が意のままにならぬもの……。そして、いかにつれなくされようとも、慕う気持ちを変えることもまたできませぬ。しかし、なればこそ、人の世はおもしろいのではありませぬか?」
ひたと見詰め合う二人――。見る間に九郎の目にいつもの勝気さが戻って来た。
「何を申す! 竜は別につれなくなどしてはおらぬ!」
照れ隠しも手伝って余計に向きになって言い返す九郎にも、
「さようでございますな……。ならば、それでよろしいではありませぬか……」
と、どこかおどけた表情で軽く受け流す鬼若。
そんな他愛もない遣り取りに、九郎の心もわずかながら和みかけたちょうどその時、
「何をしておるのだ! おい、しっかりしろ!」
ふいに外から響いて来たのは吉次の叫び声――。
九郎も鬼若も妙な胸騒ぎを覚えて、慌てて部屋から飛び出した。
「竜……?」
吉次に抱えられてそこに立っていたのは、紛れもない竜であった。
「……いかがしたのだ?」
九郎は驚きのあまり色を失う。
「ただいま戻りました……」
荒い息を抑えつつ笑って答えた竜だが、よく見ると全身が土埃で汚れていた。西木戸からの道のりはさほど遠くないとはいえ、この様子では何度も転んだに違いなかった。
「何と無茶なことを!」
そう口にしながらも、九郎は目を潤ませていた。
「馬鹿が! せっかく御館からもゆっくり養生せよとのお言葉を賜ったものを……」
吉次が竜を肩で支えながら、呆れたように吐き捨てる。
「ここがいい……。九郎殿も吉次も鬼若もいる……。慣れぬ場所ではどうにも居たたまれず、満足に眠ることもできませぬゆえ……」
竜の言い分に三人がそれぞれに胸に込み上げる熱いものを感じていた。
「ともかくこんな所ではなんだ。早く奥へ……」
吉次が促すより先に、鬼若がそのいかつい肩に竜を担ぎ上げた。
「よく帰って来たな……」
しみじみとつぶやく鬼若に、竜も安堵の思いでこれに小さくうなずいていた。
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