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落馬騒ぎの起きたその翌日には、はや何事もなかったように立ち働く竜の姿があった。
またしても脅威の回復力を見せつけられ、吉次も九郎も大いに驚きはしたものの、もはや不思議とも思わなくなっていた。
そうして数日が経ったある日のこと、竜は秀衡からの呼び出しを受け、久方ぶりに伽羅ノ御所(きゃらのごしょ)を訪れた。
「怪我はもうよいのか?」
竜の顔を見るなり、秀衡は気遣う言葉をかけた。
「はい。ご心配をおかけいたし真に申し訳ござりませぬ」
「何を申す! その方は忠衡の命の恩人ではないか。この秀衡の方こそ礼を申さねばならぬ」
そう言って頭を下げる秀衡に、竜は恐縮してさらに頭を低くした。
「その方のおかげで、忠衡はかすり傷の一つも負わずに済んだのじゃ。泰衡の話では、例の暴れた駒は足の骨が折れておって手の施しようもなく、その夜のうちに葬ったそうな……。真に哀れなことじゃが、それもやむを得まい。何をおいても忠衡の身が無事であった……、これにすぐる幸いはない。今さらながら、もしあのまま忠衡が乗ったままであったなら……、そう考えただけでも背筋が凍る思いじゃ……」
目の前の秀衡の表情は、ひたすらに我が子を案ずる父親のものであった。奥州の覇権を握る大人物といえども、子を思う親心に何の違いもありはしない。
「しかし、その方、いったいどこで駒の乗り方など覚えたのだ? 堂々たる手綱さばきであったと……、国衡も大いに舌を巻いておったぞ。京の商人が奥州駒を見事乗りこなすとは……、恐れ入った……」
感心することしきりの秀衡にも、竜は戸惑いを浮べた。
「乗りこなすなどと……。あの時はただ無我夢中で……、いったい何をどう致したのか……、よく覚えておりませぬ……」
頼りなげな竜の返答に、秀衡はしばし呆気にとられながらもすぐに顔を綻(ほころ)ばせた。
「その方らしいのう……」
豪快な笑い声にも竜は畏(かしこ)まってうつむくばかりだったが、そんな奥ゆかしい様もまた秀衡に好感を抱かせた。
「今日はその方に褒美を取らそうと、こうして呼んだのじゃ……」
「褒美など……、さようなことは……」
「わしの心じゃ。受け取らぬではすまされぬぞ」
秀衡が目配(めくば)せすると、にわかに従者達の動きが慌しくなった。
怪訝(けげん)に思う竜の耳に突如聞こえて来た駒の嘶(いなな)き――。
程なくして、屈強の侍が三人がかりで激しく抗う一頭の駒を引きずり出して来た。竜は秀衡の面前にあることも忘れて思わず歩み寄っていた。
「流星……」
驚く竜を前に流星はまた一声嘶く。
「この駒をその方に与える」
そっと竜の背後に立ち、抜き打ちの如く秀衡が告げた。
「……は?」
「忠衡を助けた褒美じゃ」
秀衡の言葉はさらに竜を困惑させた。
「恐れながら……、私は侍ではありませぬ。このように立派な駒を頂くわけには参りませぬ」
「しかし、流星はおまえの言うことしかきかぬ」
「……」
「国衡より厩番(うまやばん)を困らせて手に負えぬゆえ、どうにかしてくれとうるさく言って来ておってのう……」
流星の目は何かを訴えたげに竜を見つめていた。
「この駒は理が勝ち過ぎて、それゆえ人を見下し、従うことを良しとせぬきらいがあった。このわしでさえ、よほど機嫌の良い時でなくばその背に乗せはせなんだものを……。それがおまえにはこれほどまでに気を許しておる……」
先ほどまでの荒々しさからは打って変って、流星は甘えるように竜の顔に鼻を摺り寄せてくる。竜はいつものようにその首筋を優しく撫でてやった。
「人であれ、駒であれ、互いの思い通じ合う出会いなどそうはあるものではない。あるいは、流星もおまえのような人間が現れるのをただひたすらに待ち続けておったのやもしれぬ」
「御館殿……」
「ここでおまえが突き放しては、こやつもその思いの行き場をいずこに求めればよいのか……。一度誓うた忠誠は生涯忘れはせぬもの……」
追従(ついしょう)するように流星も首を下げた。
「流星……」
その澄んだ目は何も語らずとも、いつも竜の心の底までも見通しているかのようであった。
これまで何かにつけ、自らの意思を他人に伝える難しさを感じて来た。
どんなに言葉を尽くしても容易には伝わらない思い――。
しかし、流星はそんな竜の苦しみですら見抜き、迷う時にはその背を押し出し、一心に願う事には己の持つ目一杯の力を余すことなく傾けた。それが頑なだった森房の心を解き、忠衡の危機を救うことにもなったのである。
「まあ、よい。後でゆっくり流星と語り合うてみよ。どうしても断ると申すなら、その方がこやつにしかと言い聞かせよ。何人にも大人しく従えと……。何の役にも立たぬ怠け者などこのわしも要らぬからな……」
「御館殿……」
竜の困り切った顔を見つつ、秀衡は軽く笑い飛ばした。
「そう言えば、竜、その方はまだ中尊寺に参ったことはなかろう」
「はあ……」
咄嗟のことに要領を得ないまま、竜は曖昧にうなずいた。
「ちょうどよい。これより参るゆえ、その方も供を致せ」
かくして秀衡は他の従者の同道を退け、竜ただ一人を連れて伽羅ノ御所を後にした。
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