天皇×上皇の対立 〜二代后の波紋〜
 
   
   『平家物語』巻一にある「二代后」(にだいのきさき)の話はご存知の方も多いかと思います。
 
 保元の乱で敗死した悪左府頼長の養女として、久安6年(1150)に、当時12歳の近衛天皇の許に、11歳で入内した
多子(まさるこ)
 しかし、わずか5年後の久寿2年(1155)に近衛天皇は亡くなり、16歳で寡婦となると、宮廷を退き、近衛河原の御所に移り住んでいました。
 それからの世情の混乱は既に触れてきましたが、この間の相次ぐ代替わりにより、二条天皇の御世には、多子は大皇太后と呼ばれる地位にありました。
 皇太后が先帝の后、大皇太后は先々帝の后、なんてことを言うと、随分と年配を想像してしまいがちですが、近衛天皇が亡くなって、まだ3年程しか経っていませんから、年は依然として20歳そこそこでした。
 この時代の年齢としては、花の盛りは少し過ぎかけた頃とはいえ、入内の当時から絶世の美女と噂された容色が、急に衰えるというものでもないでしょう。
 
 若く美しい未亡人
――これだけで、心を動かされる男性諸氏も少なくないのでは?
 ただ、その男性が他ならぬ二条天皇であったために、大きな問題に発展してしまったのでした。
 二条天皇は多子の入内を望みますが、大皇太后の入内という前代未聞の艶聞には、公卿達も難色を示します。
 いくら平安時代の男女の関係が大らかだったとはいえ、こと天皇家に関しては話は別です。天皇妃の再婚は憚られ、ましてや、二代后などもっての他でした。
 しかし、彼らが反対だった本当の理由は、そんな倫理的な問題だけではなかったようです。
 
 二条天皇には、既に女+朱子内親王という正妃がいました。
 美福門院所生の皇女で故近衛帝の実妹。この婚姻が、天皇となるための条件であったことは明白です。
 そこへ大皇太后という身の上の多子が加わることは、中宮女+朱子の立場をおびやかす脅威であり、第一、他の女にうつつを抜かす娘婿を、あの美福門院が許すはずがありません。
 後白河上皇も、二条天皇を諌止し、中宮との関係修復を望みますが、何せ昨今対立中のこの親子。父上皇の意見を素直に聞く息子ではないでしょう。むしろ、意地になって、いっそう入内にこだわるのが自然の流れです。
 
 多子にしても、二代后などという恥辱は耐えがたく、再三の要請を固辞し、実父の藤原公能も辞退を申し入れますが、結局、二条天皇は主命という形で、強引に事を推し進めてしまいます。
 人目を忍ぶように入内した多子と相前後して、中宮女+朱子内親王は母美福門院の屋敷に移り住み、事実上の別居生活に突入します。
 愛娘の受けた仕打ちに、母美福門院が烈火の如く怒ったであろうことは、想像がつきます。
 
 美福門院は鳥羽法皇の死後も、なお朝廷内に強い影響力を保ち続けていました。二条天皇の側近の多くが鳥羽法皇恩顧の公卿達でしたから、それも当然の成り行きでしょう。そして、他ならぬ女院の逆鱗に、二条天皇自らが触れてしまったのですから、事態は深刻この上ありません。
 公卿達の間には天皇への不信感が生じ、これまでの全面支持の様相も急激に崩れ始めます。
 
 そこに、これまたグッドタイミング?で起こった藤原経宗・惟方の逮捕劇。
 これを公卿達が黙認したのは、二条天皇に対する無言の抗議とも言えます。
 
「いったい誰のおかげで、天皇になれたと思っているのか」
 天皇という特異な地位ゆえに、何をしても許されると思っていた二条天皇も、この声なき訴えには愕然としたことでしょう。
 そして、このような貴族の動向を熟知していればこそ、清盛も逮捕する役目を承諾したに違いありません。
 
 後白河上皇は一気に復権へと転じ、二条天皇は自らの手で、政治の実権を父上皇の側へと、追い遣ることになったのでした。
 が、ここでふと思うことは、これももしや、
後白河上皇の計算だったのでは?という疑い。
 平治の乱によって失った権威の回復をめざしていたところに、ふって沸いた「二代后」問題。公卿達の離反を図るのに、こんなうってつけな事件はないでしょう。
 ここで父親らしく諌めてみせれば、好印象を与えると踏んで説得に奔走し、なおかつ、諌めれば余計に反発するであろうことも予想して、息子の自滅を待っていたとすれば
……
 
(やっぱり、只者ではない気配が漂ってくるような…)
 
 一方、父親と同じ轍を踏んでしまった息子も、そこはやはり親子、すごすごと引き下がるものではありませんでした。
 程なく、美福門院が亡くなり、廟堂の重鎮達も相次いで世を去るという幸運?にも恵まれ、次第に力を盛り返し始めます。
 何しろ口うるさいお目付け役がいなくなり、残る相手は父の後白河上皇のみ。
 元来、秀才の誉れ高く、また自らが天皇であることを強く自覚した二条天皇は、そう遠くない将来、只一人の帝王として君臨する日が来るものと、確信して疑わなかったことでしょう。
 
 かくして、世紀の親子喧嘩も拮抗状態に入り、第二段階へと進むことになるのでした。
    
  2003.8.18up
   
 
   
 
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