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二条天皇、後白河上皇、共にこれといった決め手のないまま、一年余りが経過した応保元年(1161)9月、冷戦状態に再び火をつけるある事件(?)が発生します。
後白河上皇に六人目の皇子が誕生!(どこが事件なんだか…?)
生母は小弁局(こべん・の・つぼね)といって、上皇の同母の姉上西門院に仕える女房でした。小弁という侍名(さぶらいな)は、異母兄平時忠が当時右少弁であったことに由来します。
さて、ここで登場の平時忠。
平清盛の正室時子の弟、後に平関白呼ばれ、『平家にあらざれば人にあらず』の迷言を吐いた人物として有名ですが、彼の大口は、どうやら生来の悪癖だったようです。
思いがけず妹に上皇のお手がつき、皇子まで授かったということで、少しばかり気持ちが大きくなっていたのでしょうね。
「この叔父が、帝にしてしんぜいよう」なんて大それたことを、言ったとか、言わなかったとか。
しかし“壁に耳あり障子に目あり”とはよく言ったもの(公家社会の常識!!)
案の定、その噂は、瞬く間に二条天皇の耳にまで届き、もちろん天皇は……
「大激怒!!!」
実は同じ頃、二条天皇は疱瘡(天然痘)という、生死に関わる重病の床に伏していました。この時は、運良く大事には至らず、程なく回復したものの、自分が病床にある間に、後継ぎのことが話題にされたと知って、心中穏やかであるはずがありません。
しかも、18歳と若い二条天皇には、未だ皇子はおらず、皇太子も空位のままと、大変微妙な時期にあったため、皇位継承問題に絡む不穏当な発言には、とりわけ過剰な反応を見せたのでした。
皇子誕生の祝事からわずか10日余り後、時忠には解官という厳しい処罰が下されました。
罪状は、新皇子の皇太子擁立を図った咎といった所でしょうか。
ついでに、そのとばっちりを受けて、清盛の異母弟の平教盛も共犯者と見なされ、同じく解官の憂き目にあっています。
この時、二条天皇は、時忠の発言=後白河上皇の意思と受け取ったのでしょう。
天皇である自分を疎み、新しい弟宮に愛情を傾ける父に対する失望と憎悪―― ここに、両者の対立は、ついに決定的となったのでした。
徹底抗戦を決めた二条天皇は、まず、近年孤立を余儀なくされていた摂関家との提携に踏み切ります。
摂関家側も、失地回復の絶好のチャンス!とばかりに、同年12月17日、忠通の養女育子(実父は内大臣藤原実能)を関白基実の養女として入内させ、翌年2月には、既に出家していた中宮子内親王の女院号の宣下(高松院)を待って、育子を中宮の位に就かせています。
天皇と関白が手を組むなど、これ以上ない最強タッグ。その上、二条天皇と基実は同年齢で、置かれた境遇にどこか似通った所もあり、互いに組しやすい相手だったことも効を奏したのでしょう。
片や贔屓の引き倒しが専売特許(後白河上皇)、片や自分の手を汚さずに政敵を葬り去る天才策士(藤原忠通)と、一癖も二癖もある古狸を父親に持つという共通点が、いっそう二人の結びつきを強くし、宮廷にはびこる因習を打ち払い、政治の刷新を図るという、若者らしい理想をも共有していたのかもしれません。
そして、その勢いのままに、二条天皇一派は、“打倒!後白河院政”の錦の御旗を掲げ、上皇の側近達に対して、次々と、制裁を加えて行くことになります。
1161(応保1) 9.15 |
平時忠・平教盛 解官 |
(山槐記) |
〃 〃 11.29 |
藤原信隆・藤原成親・藤原範忠 解官 |
(山槐記) |
1162(応保2) 6. 2 |
源資賢・源通家・源雅賢 解官 |
(帝王編年記) |
〃 〃 6.23 |
源資賢・源通家・平時忠・藤原範忠 流罪 |
(清眼抄) |
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とりわけ、応保2年6月の解官・流罪は、二条天皇を呪詛したという、かなり過激な罪状が伝えられていますが、はてさて、真相はどうであったか……。
というのも、根本となった例の時忠の発言についても、「ゆゆしき過言」(愚管抄)とか、「世上嗷々の説」(百錬抄)などとあるものの、具体的な中身を記したものは見当たらないのです。
ここで、少し解説を加えると、平時忠の家系は、代々『日記の家』と評される学者肌の堂上公家で、清盛一門の武家平氏よりは格上ながら、公家社会全体から見たランク付けは“中流”です。
父の時信は兵部大輔止まり、時忠自身もこの頃、既に30歳を過ぎていましたが、未だに五位の辺りをウロウロしていましたから、公卿への道は果てしなく遠く……。(一生かかっても無理かもしれない)
いくら上皇の皇子といっても、この母方の出自から考えれば、皇位継承など高望みもいいところで、出家して法親王とされるのが、お決まりのコース。現に、二宮の守覚は、平治の乱の直後に、既に出家を遂げています。
そういった事情を、時忠が知らないはずはありませんから、案外、ほんの軽い冗談で「天皇になってくれればな……」ぐらいのことを、ため息混じりにつぶやいたのが、どんどん拡大解釈されて、いつのまにか「謀反!」になっていたというのも、あながち、ありえないことでもなかったりするのです。
(“後で理由は何とでも…”なんてことが、平気で罷り通る世界ですから…)
さて、よきにつけ悪きにつけ、こうした粛清の嵐が吹き荒れる一方で、応保2年の3月7日には、先年流刑となっていた藤原経宗が罪を許され、召還されています(百錬抄)。
共に解官され、同じく流されていた乳夫の惟方は、既に出家の身となっていたので、政界への復帰は叶いませんでしたが、外戚であるこの経宗の返り咲きは、事実上、二条天皇の復権宣言だったのでしょう。
かくして、後白河上皇は手足をもがれた隠居状態に追いやられ、ここに、二条天皇による親政体制が、形を成すに至ったわけです。
ところで、この間、平清盛はいったいどうしていたのか……。天皇と上皇のどちらについたのか……、気になる所です。
その動向を探る上で興味深いものとして、『山槐記』の永暦元年(1160)12月15日の条に、「八十島使典侍右衛門督清盛卿女子」との記事が見えます。
天皇の即位後(大嘗会の翌年)、摂津国難波(現在の大阪)に勅使を派遣し、住吉神などを祀る一代一度の神事――これを「八十島祭」というのですが、その勅使は、今上天皇の乳母が務めることが慣例になっていました。(後白河天皇の時にも、やはり乳母だった信西の妻 紀二位局が務めています)
そして、同じく『山槐記』の12月24日の叙位の記録の中に、
「従三位平時子 臨時、典侍御乳母、左衛門督清盛卿室」とあることから、清盛の妻時子は二条天皇の乳母になっていたようです。
経宗・惟方の逮捕劇によって、平家の武力をまざまざと思い知らされた二条天皇は、逆に、これを自らの側に取り込み、天皇親政の体制を強化しようと考えたのでしょう。
そこで、失脚した惟方に替り、清盛を乳夫に据えることにしたわけですが、これは、かつての信西の処遇に準じるものです。
この乳夫という地位にあったおかげで、正三位 への昇叙(同年6月20日)、参議 の任官(8月11日)と、武門の出には 超難関 ともいえる昇進の壁も、スムーズに超えることができ、清盛にはこれ幸いの追い風となったのでした。
もちろん、この厚遇に見合う働きが求められることになりますが、そこは抜かりない清盛のこと、皇居に宿直所を設けて、一族郎党をもって常時警護に当たる体制を敷くなど、せっせと忠勤に励んでいたようです。
先に挙げた、後白河上皇の六宮をめぐる時忠・教盛解官事件の時にも、連坐される可能性もあったにも関わらず、清盛自身は特に何の咎めも受けなかったのですから、いかに、二条天皇が清盛を頼りにしていたか、推して測るべしといった所でしょう。(ここで、清盛を切り捨てては、敵(?)の思う壺と、あえて、黙認したともとれますが…)
そもそも、小弁局と妻時子は姉妹とはいえ、異腹ということで、各々が母方で養われたとすれば、それこそ、顔を合わせることも稀な“近くて遠い”存在。
その義妹が、上皇の皇子を生んだといっても、清盛にしてみればおよそ他人事と、当初は、傍観を決め込んでいたかもしれません。
ただ、“利用できるものは利用する”という、極めて合理的な思想の持ち主でもありましたから、むしろこの解官事件によって、六宮の存在に改めて利用価値を見出し、漠然とながら、将来への期待を抱いたであろうことまでは、否定しえません。
そのためか、二条天皇への奉仕の傍ら、義妹の小弁局を通じて、逆風にさらされる後白河上皇とも、依然として気脈を通じる関係を維持しており、いわゆる“アナタコナタ”して、どちらの機嫌も損ねないように気を配っていたとは『愚管抄』の伝える所です。
しかしそれも、ただ両者の間をしどけなく右往左往していたわけではなく、一方では、前関白藤原忠通の死去を契機にして、関白基実にも近づき、三女盛子との婚姻を成立させる《長寛2(1164)年》など、摂関家との融和を図ることも忘れていませんでしたから、押えるべきツボはしっかり押さえ、したたかに、そして着実に、自歩の足固めを行っていたという所でしょうか。
そして、これが、やがて大きな実を結ぶこととなるのですが、それはもう少し後の話になります。
こうして、二条天皇を頂点に、摂関家(文)と平家(武)が手を結んだ、強力トライアングルによって動き出した新政権。
今度こそ、後白河上皇の政治生命もお終い……………… になるはずでした。
しかし、時代は、まだまだ大きな波乱を欲していたのでしょう。事態は思いがけない急展開を見せることになります。
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