六波羅 嫁姑戦争 〜4.執念の婿取り合戦〜
 
   
   保元・平治の二つの内乱によって、政界における勢力地図を一気に塗り替えられ、二大武家勢力の一つ“源氏”が壊滅状態となった一方、残る“平家”の存在意義はいよいよ増し、その地位も格段に向上させることになりました。
 そんな中、清盛の子
重盛 と藤原家成の娘 経子 の結婚が実現します。
 長年の悲願でもあった
“善勝寺流”との縁組には、宗子の感慨もひとしおだったことでしょう。
(家成の一族は、祖父顕季以来の「家」の寺<氏寺>にちなみ「善勝寺流」と呼ばれていたため、以下ではこの称を用います)
 但し、この時、重盛は初婚ではなく、既に、維盛・資盛の二人の男子の誕生を見ていました。
 
重盛婚姻系図

 
 維盛と資盛の腹違いの兄弟で、資盛の母は
二条院内侍(少輔掌侍) と知られていますが、維盛の母は「官女」とあるのみで、その人物を特定するに至っていません。
 ただ、清盛・重盛の例を見てもわかるように、後妻の経子が男子を生んでるにも関わらず、維盛が嫡流と見なされていたのは、維盛の生母が元々の重盛の正妻であったことを意味し、また、彼女に関する記録がまるで見当たらないのは、かなり早い時期
(恐らく平治の乱前)に亡くなっていたためと思われます。
 そして、幼くして母を失った維盛は、父重盛がそうであったように、曾祖母
宗子 に引き取られ、極端な話、彼女の後ろ盾があったればこそ、嫡孫でありえたのかもしれません。
 
 それにしても、重盛−清盛−忠盛と、平家嫡流は三代そろって先妻を早くに亡くして、後妻を迎えており、先妻腹の嫡子との間に、多かれ少なかれ、わだかまりを抱えているところなど、何か因縁めいたものも感じられます。
 
 さて、話を重盛と経子の再婚の件に戻しますと、二人の結婚がいつ頃成ったかは不明ですが、経子は三男
清経 以下数人の子を儲け、なおかつ、憲仁親王(高倉天皇)の乳母 となっていることから、親王誕生(1161年)以前で、維盛が4〜5歳の頃でしょうか。
 経子は憲仁親王の立太子に伴い、仁安元(1166)年10月10日に従五位下に叙され、即位後の嘉応元(1169)年11月には、天皇の乳母の晴れ舞台ともいうべき
八十嶋祭使 も勤めており、最終的には、従三位まで進んだようで、「大納言三位」「大納言典侍」などの呼称が知られています。(夫重盛が大納言に在職)
 なお、八十嶋祭に関する記録の中に、経子は左大臣
藤原経宗 の猶子である旨が付記されています《兵範記》。
 二条天皇の外戚で、その在世中には、後白河院との対立から清盛に捕縛され、流人の憂き目も見た経宗ですが、召還後は、努めて親平家の姿勢を見せ、とりわけ、重盛に接近を図っていたようで、経子のみならず、重盛の子宗実も猶子に迎えています。
(こういう風見鶏的な臨機応変さがなくては、その後二十数年も大臣の座を守ることはできなかったでしょうね)
 
 またもや話が少々それてしまいましたが、かくして、重盛と経子に始まった平家と善勝寺流との提携路線は、以後も踏襲され、隆季の嫡男隆房と清盛の娘、成親の二人の娘が維盛と清経と、さらには、成親の嫡男成経と教盛の娘と、両家は二重三重の婚姻関係によって結ばれることになります。
 
平家&善勝寺流婚姻系図

 
 それにしても、家成の在世中ならともかく、平家の地位も安定したこの時期に至って、なぜ、これほどまでに徹底した婚姻関係を結ぶ必要があったのか……。
 一つには、一家の大黒柱であった家成の死により、これまでのような圧倒的優位を保てなくなった隆季や成親が、何とか武門平家のバックアップを得ようと、進んで求めてきた縁組という見方もできます。
 それに、継母池禅尼の中に、いつまでも残る家成一門に対するコンプレックスが、“善勝寺流”至上主義と化して
「縁組の相手は“善勝寺流”の血筋のものでなくては!」と、これを強力に後押ししたのではないでしょうか。
 また、折りしも、二条天皇と後白河院の父子対立は激化の一途をたどり、清盛が天皇の側近として重用され始めていた時期だけに、後白河院の反発を抑える
緩衝材 の意味でも、院の近臣として寵される隆季・成親兄弟と結ぶことは、有効な策と考える向きもあったかと思われます。
 
 
 しかし、こうした宗子の意のままに動きつつある一連の流れを、嫁の時子はどんな思いで見つめていたのか……。
 清盛の妻となった頃の時子は、まじめだけが取り得の、しがない一官吏の娘にすぎず、政界に強力なコネクションを持つ宗子に対して、嫁姑の立場以上に、引け目のようなものを感じていたかもしれません。
 が、清盛の地位が上昇するにつれ、その正妻としての時子も注目を集めるようになり、思いがけず、
二条天皇の乳母 という大役を担い、八十嶋祭使 も無事に勤めたことで、時子も平家の棟梁の妻としての自信を、大いに深めたことでしょう。
 また、それに加えて、上西門院の御所で女房勤めをしていた異母妹
滋子 が、女院の弟である後白河院の目に止まり、院の皇子を生んだことが、時子にも最大の転機をもたらします。
 皇子誕生により、滋子はいよいよ後白河院の寵愛を独占するようになり、あろうことか、彼女の生んだ皇子
憲仁親王 が、有力な皇位継承者に急浮上します。
 もしも即位が実現すれば、
「甥が天皇」という、これ以上ない後ろ盾を得ることになる時子が、果たして、いつまでも、大人しい嫁のままでいたか……。
 
 自分の妹が皇子を生んだからこそ、これほどまでの平家の大躍進も有り得たとの自負。
 その思いが強ければ、強いほど湧き上がる
「この繁栄を享受するのが、なぜ、我が子の宗盛でなく、重盛とその子供達なのか……」という不満。
 
 それは、かつて宗子も通った道であり、少なからぬ期待をかけた家盛が早世するという悲運はあったものの、一方で、幼少の頃から手ずから育て《宗子》、育てられた《清盛》
―― 両者が互いを尊重し合う心、二人の間に横たわる強い信頼関係があればこそ、その葛藤を乗り越えることもできたでしょう。
 しかし、時子は、姑の宗子によって重盛とは隔てられ、疎遠のままに月日を重ねてきただけに、親子の情愛に乏しく、なおのこと、釈然としないものを感じていたかもしれません。
 
 そんな時子の煩悶をよそに、清盛は重盛を後継者と定めると、自分に先んじて世を去るまで、一貫して、これを変えることはなく、また、維盛も早くから嫡孫として遇し、重盛の家系が
嫡流 であることを、世間的に広くアピールしています。
 これは、重盛の棟梁としての資質を認めていたのは無論のこと、忠盛の正妻宗子の実子ではない自分が、一門の総帥となった経緯を踏まえ、あらぬ争いを招かぬためにも、嫡庶のいずれに関わらず、
長子に家督を譲る ことを慣例にしようとの意思が働いてのことのようにも思われます。
 
 時子も正妻として、夫のそうした深慮を理解し、重盛の家督相続も止むを得ないものと、これを了承したでしょうが、それならば、なおのこと、重盛との
“冷ややかな”関係 をそのままにしておくわけにもいかないと、大いに危機感を募らせることになります。
 半ば“善勝寺流”に取り込まれつつある重盛父子をいかに自分達の側へ引き戻すか……。
 姻戚に頼った同盟関係には、やはり婚姻政策で対抗すべしと考えたのか、時子は、既に経子という正妻のいる重盛の許に、あえて自分の妹を嫁がせ、さらに、維盛にも弟親宗の娘を娶わせ、重盛一族との連携を強く求めて行くことになります。
(本当は自分の娘の方が効果的ですが、さすがに兄に妹を嫁がせるわけにはいきませんからね)
 その図式は、さながら、“善勝寺流”の名を借りた姑宗子との綱引きの様相を呈しています。
 
 
平家&時信一族婚姻系図

 
 しかも、その一方で、実子の宗盛にも自分の妹を娶らせつつ、知盛には花山院流
藤原忠雅 の娘を、重衡には清盛の盟友 藤原邦綱 の娘を正妻に迎えるなど、相手を多方面に求めているのには、宗子主導に始まった“善勝寺流”一辺倒の婚姻政策に対する、あからさまな牽制意識のようなものも感じられます。
 
 
 ところで、肝心の姑宗子は、
いったい、いつ頃まで生きたのか?
 不思議なことに、平治の乱以降の彼女の足取りは全く謎です。
 主だった人物の父母や妻の
訃報・服喪 に関する記事は、公卿日記の定番ながら、一番の情報量を誇る『玉葉』を始め、その他の諸史料にも、彼女の死を示すものは見当たらず、当時の平家の政界に与えた影響力からすると、その“ゴッドマザー”たる宗子の死が無視されるものとは考えられないことから、これらの 闕巻の時期、具体的に、長寛2(1162)年頃との説もあります。
 いずれにせよ、重盛と経子の結婚を見届けつつ、居所の六波羅“池殿”で静かな余生を過ごした後、およそ60歳位で往生を遂げたのではないでしょうか。
 
 しかし、宗子の死によって、時子の戦いは終わったわけではありませんでした。
 むしろ、年来の宿敵がいなくなったことで、対立の構図は、より複雑に、そして政治色の濃い大規模なものへと変化して行きます。
 宗子の思いを引き継いだ
重盛 と、姉時子から請け負った弟 時忠
 双方主役交代となった
「代理戦争」は、これ以後、貴族社会全体をも巻き込んで、壮絶な死闘を繰り広げることになります。
 
 
 
 ☆主な参考文献
  『清盛以前』(高橋昌明著:平凡社)
  『王朝の明暗』『王朝の映像』(角田文衛著:東京堂出版)
   人物叢書『平清盛』(五味文彦著:吉川弘文館)
  『平家物語の虚構と真実』(上横手雅敬著:塙新書)
    
  2004. 8. 3up
   
   
 
【追記】
   と、ここまで書いてはみたものの、この後、何気なく図書館でコピー取りした資料を眺めていたら、「ええ〜! うそ!」の文献に遭遇。
 時信の娘で「坊門殿」という内裏女房が「維盛の実母かも?」という内容で、恐らく、ここでも触れた、時子の妹で重盛の妻になった女性のことを指すものと思われますが、これが事実だと、随分話の展開が変ってくるんですよね。
 それで、慌てて、あっちこっちの資料を引っ張り出して調べて見たのですが、他にはそれらしいものも見つからず、元々の引用史料でも「坊門殿」が時信の娘で、重盛の妻である旨は明記されているものの、これを維盛の実母と断定するのは、かなり無理があるような気がしたため、あえて、無視することにしました。
 維盛は庶子でなく嫡孫ですし、その実母が時信の娘ということは、時子にとっても血の繋がった甥に当たるわけですから、これが正真正銘の事実なら、それらしい話の一つや二つも残っていそうなものだと……。
 ちなみに、該当の文献は『後白河院―動乱期の天皇―』(古代学協会編:吉川弘文館) の「建春門院」の論説。気になる方は、どうぞそちらでご確認下さい。
 
   
   
   
 
   
 
  戻る    
   
   
   
   
   
   
   
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送